川面浮くこぼれ桜の徒競走 ③

続 ぼんぼん彩句

更新

前回のあらすじ

キリカの母親は未婚のシングルマザーだった。自覚がないまま遊び人の男にお金を貢ぎ続け、両親にも縁を切られ、頼れる大人もなく娘と二人きりで生活していた。母親が語る夢物語を騙されているだけと解釈し、家を飛び出したキリカは、今、生成AIで死者を復活させるラザロビジネス界の最底辺にいる詐欺業者、〈株式会社スリー・ホライズン〉でバイトしている。

イラスト 出口えり
イラスト 出口えり

 安住さゆりとのテキストチャットが行われるまで、あと一週間の余裕がある。社長曰く、「あんまりスピーディに復活者をつくると、信憑性もありがたみも失せる」そうで、依頼者を待たせるのがこの会社のやり方なのだ。師井明日香に関する資料は全部読んでしまったし、彼女がよく使いそうな表現のリストも作ったし、暇になったキリカは、他のオペレーターを手伝ったり、事務所の乱雑な資料棚を片付けたり、嫌いなボイストレーニングに参加したりした。
 このとき、トレーナーに頼んで、(短時間だが)安住さゆりの案件をボイスチャットにした場合のシミュレーションをしてもらった。やってみたらどんな感じになるのか試してみたかっただけなのだが、キリカは意外なほど巧くこなせたようで、トレーナーに褒めてもらった。
「君、素質があるんだよ。テキストチャットだけじゃもったいない。トレーニングを続けて、ボイスチャットも引き受けたらどう? ギャラがぜんぜん違うからね」
 ギャラなんて言われると、ますます声優みたいだ。その点でも、キリカはいい気分になった。隙間風が吹くオンボロアパートから抜け出すためにも、ひと頑張りしてみる価値はあるかもしれない。
 ―少しは貯金もしたいし、もっとマシな仕事に就くことだって考えなくちゃ。
 こんなインチキ商売、いつまで続けられるかわからない。復活者生成AIの開発研究がさらに進み、安くて優秀なバージョンが登場してきたら、オペレーターが復活者に成りすます詐欺なんて、存在する理由そのものが消えてしまうのだ。
 十八歳で家出したときには、とにかく母親と一緒に住んでいた古い公営住宅から抜け出せれば、未来は自然に開けてゆくと思い込んでいた。いや、そう信じなければ、思い切って飛び出すことができなかったのだ。
 幸か不幸か、キリカは勉強は嫌いだったけれど、無料ただ働きでさえなければ、仕事の場では骨惜しみしない気質たちだった。アルバイトの掛け持ちも苦にしなかった。だから様々な現場で重宝がってもらえたし、その結果、若い女性が傾斜しがちな夜の仕事の方面には向かわないで済んだ。
 いつも、自分の人生を自力で持ち上げることに必死だったし、女たらしに騙されてシングルマザーになった母親がいかに惨めに貧困の底を這いずり回ってきたか骨身に染みて知っているから、色恋にバラ色の人生の夢を託すこともなかった。むしろ、底辺にいるキリカに寄ってくる男どもは、互いに足を引っ張り合うだけの底辺の同類か、こっちを騙して金や女性性をむしり取ろうとする(顔も知らない生物学上の父親と同類の)危険な人食い鮫だと心得ていたので、男っ気は乏しいくらいだった。
 今も、スタート時点よりちょっとマシになった程度の貧困のなかにいて、インチキ商売に加担しているキリカは、ここまでの人生で一度も正解を引きあててこなかったが、自分を駄目にするほどの不正解は引かずに済んできた。三十歳目前で、立ち直るなら最後のチャンスだろう。
 テキストチャットの前日、事務所へ向かうため昼前にアパートを出て、ふと思いつき、私鉄線の駅まで歩くルートをいつもと変えて、近くを流れる狭いドブ川沿いに行くことにした。桜並木はないが、貧相なソメイヨシノが一本だけ、向かいの月極駐車場の端っこに植えられていて、すかすかの枝に頑張って花を咲かせているのだ。本物の桜をちゃんと眺めるのも、準備のうちに入るかもしれない。
 桜の季節になると、日本中が花に酔う。十五歳の安住さゆりと師井明日香が川面を走る二枚の花弁に奇跡を見てしまったのも、春の酔いのせいだったのかもしれない。キリカには縁のない、永遠に感じることも理解することもできない幸せな酔いだ。
 ちょうど桜の木の対岸で足を止めたとき、首から提げたスマホに着信音がした。画面を見ると、”一恵かずえ先輩”と表示されている。かつて母親と住んでいた公営住宅のご近所さんであり、キリカの中学・高校の先輩でもある人の名前だ。