【試し読み】中江有里最新長編『愛するということは』①
女優・作家・歌手 中江有里最新長編『愛するということは』刊行記念特集
更新
直木賞作家桜木紫乃さんが「涙で書かれた家族の歴史に、最後まで頁をめくる手が止まらなかった」と大絶賛! 女優・作家・歌手として活躍される中江有里さん最新長編『愛するということは』が、8月29日新潮社から刊行されます。
ママ、けいさつにつかまらないでね――。主人公の里美は、娘の汐里と2人暮らし。若い頃の前科が原因で家族とは疎遠となり、やがて生活に困窮した里美は再び罪を犯してしまいます。里見は愛を夢見て、他者を妬み、やがて成長した汐里は愛を求めて、姿を消します。一度は訣別したふたりが、再び巡りあったとき……。「あらゆる母娘に、愛は存在するのか」を問う本作の冒頭部分を5日間、連続配信いたします。
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プロローグ
大安吉日の週末。
明け方に小雨が降ったが、午後になると雲が晴れてきた。芽吹き始めた緑がつややかに輝く早春の日だった。
私鉄を運行する企業が経営する都心のホテルでは、何組もの披露宴が予定されていた。
その中のひとつの披露宴会場では、パールオレンジのドレス姿の女性とスーツの男性が受付に立っている。時折体が触れ合いそうになりながら声を潜めて何か話している。
少し離れたロビー脇の柱に、手を繋いだふたつの影があった。
ふいに手をほどかれた汐里はママをそっと見上げる。非日常の空間に連れて来られた不安が胸のあたりからせりあがってくる。
汐里の表情を見て、ママはやわらかく頭に手を置いた。
「あとで迎えに行くから。ママが言ったこと、ちゃんとできるよね」
汐里は頷いた。
「よーい、スタート」
汐里はうさぎのように飛び出した。
「来賓客の数、すごいですね」
藤堂真帆は、来賓客の席次表をあらためて確認した。
「これなら一つくらいなくなっても、わからないか」
男性が祝儀袋の厚みを指先で確認している。
「先輩!」
「冗談だよ」
笑う北条健の右ひじが左の肩に触れて、真帆はドキッとする。
大学時代の友人松尾美晴が結婚することになり、受付を頼まれた真帆は浮かれていた。あの頃憧れた北条と一緒というのは嬉しいサプライズだった。
彼はすでに既婚者になっていた。淡い期待は外れたが、真帆は「今日を楽しもう」と気分を切り替えた。
その時、黒いワンピースの女の子が受付の前で勢いよく転んだ。
北条が駆け寄り、女の子をそっと起こし「大丈夫?」と声をかける。
二人の様子を呆然と見ていた真帆は、北条から「どこだろう、この子の親は」と言われて我に返って保護者の姿を捜した。
「迷子かな」
「子どもは思いがけない行動をとるんだ。ホテルスタッフに預けてくるよ」
「お願いします」
北条は女の子をなだめながら連れて行く。子どもの扱いに慣れた様子に、真帆は先ほどまでの昂ぶった気分が冷めていった。
二人の姿が見えなくなって一息つくと、いつのまにかリトルブラックのドレス姿の女性が受付前に立っていた。真帆はあわてて笑顔を作ると、目の前の女性は「あの」と切り出した。
「このあたりで四、五歳くらいの女の子を見ませんでしたか?」