【試し読み】中江有里最新長編『愛するということは』⑤

女優・作家・歌手 中江有里最新長編『愛するということは』刊行記念特集

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直木賞作家桜木紫乃さんが「涙で書かれた家族の歴史に、最後まで頁をめくる手が止まらなかった」と大絶賛! 女優・作家・歌手として活躍される中江有里さん最新長編『愛するということは』が、8月29日新潮社から刊行されます。

ママ、けいさつにつかまらないでね―。主人公の里美は、娘の汐里と2人暮らし。若い頃の前科が原因で家族とは疎遠となり、やがて生活に困窮した里美は再び罪を犯してしまいます。里見は愛を夢見て、他者を妬み、やがて成長した汐里は愛を求めて、姿を消します。一度は訣別したふたりが、再び巡りあったとき…。「あらゆる母娘に、愛は存在するのか」を問う本作の冒頭部分を5日間、連続配信いたします。

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 早朝の、通勤とは逆の方向だからか車内はいていた。
 電車を降りて駅前からバスに乗り、十五分ほど揺られると、小学校前のバス停で降車ボタンを押した。そこから歩いて二分。住宅街の片隅を小走りで目指す。
 車内でこれからの想定問答を何度もした。大丈夫だ、うまくいく。
 辿りついた玄関扉の前で大きく息を吸う。肺が縮んだように吸えない。
 落ち着け、豊。お前の家に帰ってきただけだ、心の中で言い聞かす。
 鍵を鍵穴に入れて、解錠音を確かめてから、ゆっくりと扉を開いた。
「おかえり」
 玄関には妻の瑞枝みずえがいた。
 いつから待っていたのだろう。何事もなかったように、いつも通り答える。
「ただいま」
 瑞枝は寝巻ではなく、ベージュのニットと黒のスカートに着替えて、メイクもしていた。
「昨日出張から帰ってくるんじゃなかったの? 携帯の充電器忘れていったし」
「先方にしこたま呑まされて、ひどい頭痛に襲われたんだ。終電に乗り遅れて、駅のそばのカプセルホテルで一泊した。東京に着いたのがさっき」
 考え抜いた言い訳が、呪文のようにスラスラ口から出る。
「大変だったのね。スーツもシワシワ、脱げばよかったのに」
 瑞枝が手を伸ばしたので、豊はそっと制して「寒かったんだ」と優しく言った。
「疲れたでしょう」
「まあ」
…事故か何かに巻きこまれたかもって心配しちゃった。帰ってこなかったらどうしようって」
 もし帰ってこなかったら、きみはどうするの──心の中でそう問いかける。
「心配しすぎだよ」
 瑞枝の視界から逃れるように、洗面所に飛び込み、ハンドソープを使って念入りに手を洗う。
 顔をあげて鏡の中の自分を見る。無精ひげが生えてクマが目立つ恵比須顔の中年。足が速くても、女に好かれる容姿でないことはよくわかっている。そんな自分と結婚してくれた瑞枝。結婚して十一年と少し。ずっと俺だけを見てくれている。
 それなのに、俺は妻を裏切っている。
「ねぇ、ご飯食べるわよね」
 か細い声は有無を言わせない。
 瑞枝の用意していた朝食をダイニングテーブルで向かい合って食べた。ご飯に味噌汁、焼き鮭、きゅうりの漬物つけもの──なぜか酢豚すぶた青梗菜ちんげんさいの炒め物が並んでいる。
「昨夜のおかず。出張でいないの忘れて食材買っちゃったから作ったの。もったいないから食べて」
 瑞枝は微笑む。豊はすべてのおかずを茶碗一杯のご飯で胃の中に流し込んだ。
 食べ終わると、急いでクリーニング済みのスーツを着て、家を出ようとした。
「ねぇ、ちゃんとあいさつした?」
「あ…」
 うっかり忘れていた。リビングの隅っこの一輪挿し。今日は黄色いカーネーションが挿してある。豊は手を合わせて心の中でゆっくりと五をかぞえた。以前、適当に手を合わせていたら「早すぎる」と瑞枝に怒られた。この方法なら心を込めているように見える。
 満足した瑞枝はいつも通り玄関まで見送りにきた。
「今日は、早く帰ってきてね」
「うん、行ってきます」
 妻に背を向けて、バス停の方面へ歩く。その間も瑞枝が手を小さく振りながら自分の背を見ている気がした。角を曲がって、瑞枝の視界から確実に外れたと思ったら、急に深呼吸ができるようになった。
 俺は何をやっているんだろうか──。
 瑞枝といることがいつからか苦しくなってしまい、自分を解放したくて里美の元へ逃げていた。瑞枝は気付いていないし、気付かれてはいけない。
 このままだと自分の方が壊れてしまう。これは生きるための非常手段だと、豊は自分に言い聞かせる。