『こころ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』。日本を代表する国民的作家の腹の中とは。声に出して読みたい夏目漱石
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『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』『こころ』などを生み出した日本を代表する作家・夏目漱石。
名前やタイトルは知っているけどほとんど読んだことはない、でもちょっと気になる……。そんな方のために、“はじめの一歩“にピッタリなシリーズをご用意しました!
その名も「声に出して読みたい文豪シリーズ」。 NHKEテレ「にほんごであそぼ」総合指導などをつとめる齋藤孝さんによる丁寧な解説で、作家の魅力を楽しく紐解きます。文豪たちの美しく迫力のある文章を声に出してお楽しみください!
※本作は『文豪ナビ 夏目漱石』(2004年/新潮文庫)に収録された作品を再録したものです。
「腹の中」作家――夏目漱石
漱石の文体はテンポがいい。さすが落語好きだっただけのことはある。ノリが良くて読みやすい。「近代的自我の孤独」といった深刻そうな問題を扱っている作品でも、文体がふっと柔らかくテンポが良くなるときがある。読んでいてすっと心が引き寄せられる文体だ。
漱石はまさに「声に出して読みたい文豪」だ。日本を代表する国民的作家と言えば、どうしたって漱石になる。それだけの質と量を兼ね備えている。現代の日本人でも、ほとんど問題なく読み進めることができるのも魅力だ。漱石は近代の日本語を教育した近代日本語の父だ。
私は最近「音読破」運動というのを始めた。一冊の本を読破したときは気分がいい。「読破感」は自信につながる。それを音読でやったならば自信は倍増、三倍増になる、と考えた私は、小学生に『坊っちゃん』を音読で読破してもらった。音読破したら、その事実を忘れることはない。からだに音読したときの体感が残る。からだに染み込ませておけば、格段に後での活用度も高くなる。
かけ算の九九のように、『坊っちゃん』を皆が音読破していたら、日本語力のベースは格段にアップする。
それではまず江戸っ子の坊っちゃんが四国の松山の教師になり初めて授業をした日のところから音読してみよう。
最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしていたから、それ見ろと益得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もし、は生温るい言葉だ。
言葉のテンポがずれまくっているのがおもしろい。坊っちゃんはさすが坊っちゃんと言われるだけあって大人げない。中学生のいたずらにいちいちムキになる。そば屋で天ぷらそばを四杯もたいらげた日の翌日には、黒板にこう書かれた。
「翌日天麩羅四杯也。但し笑う可らず。」
これはなかなか傑作だ。臨機応変なアレンジがきいている。大人ならここで生徒たちをほめ殺しにして、毒気を抜いてやるところだ。坊っちゃんは一本気な性格の気持ちいい人間だが、少々器が小さい。腹に何も隠しておけないので、悪口がポンポン出てしまう。宿直の夜に布団の中にイナゴを入れられたときの話も面白い。何でバッタを入れた、と問い詰める坊っちゃんに生徒が「そりゃ、イナゴぞな、もし」とやりこめる。
「箆棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
私は方言こそ日本語の宝だと思っている。方言には人間の肌触りがあるからだ。感覚が生き生きと息づいている。ここでも、松山の方言と江戸弁がずれているのがおもしろみになっている。それぞれの方言には、それぞれの身体性が染み込んでいる。言葉がずれるだけではない。からだがずれるのだ。坊っちゃんはこのズレに敏感だ。坊っちゃんが悪口を言うほど、松山は読者にとって魅力的に思えてくる。坊っちゃんの立て板に水のような悪口を一つ。赤シャツのことを山嵐に向かって言う場面だ。
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
腹芸など全くできない坊っちゃんの単純さが楽しい。
漱石を音読しているときの楽しみは、今時は使わない古い言葉遣いが漱石の「癖」として出てくることだ。たとえば、高知の刀を激しく振り回す踊りを見たときの場面にもおもしろい言葉遣いがたくさん出てくる。
いかめしい後鉢巻をして、立っ付け袴を穿いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並んで、その三十人が悉く抜き身を携げているには魂消た。
「たまげた」は魂が消えるほど驚いたということなのであった。大和言葉と漢字が出会うとおもしろいことになる。このほかつい使ってみたくなる言葉として「頗る」と「甚だ」がある。この踊りの調子をとっている太鼓打ちの「ぼこぼん先生」は、こう描写される。
歌は頗る悠長なもので、夏分の水飴の様に、だらしがないが、句切りをとる為めにぼこぼんを入れるから、のべつの様でも拍子は取れる。この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これは又頗る迅速な御手際で、拝見していても冷々する。
漱石先生、頗る快調である。
聞いてみると、これは甚だ熟練のいるもので容易な事では、こう云う風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、悉くこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。傍で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実は甚だ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
「頗る」や「甚だ」といった言葉をおもしろいと感じ始めると、漱石の作品は二度おいしくなる。また出てきたと丸をつけながら読んでしまう。作家の口癖を真似するのは楽しい。








