スイーツ武士×イケメン僧侶バディの新感覚時代小説『鬼にきんつば』試し読み③

「日本ファンタジーノベル大賞」特集

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イラスト:Minoru
イラスト:Minoru

新人デビュー作にもかかわらず、発売即重版が決まった話題作。「とても面白かった!最後にほろり」と日本ファンタジーノベル大賞選考委員の恩田陸さんも大絶賛。幽霊譚×謎解き×捕物帳×江戸のスイーツ! 鬼のようなコワモテ同心と美しすぎるイケメン僧侶の最強バディが、幽霊のもたらす謎を解く、大江戸人情ミステリーです。きんつば、落雁、豆大福、粟おこし、幾世餅…美味しそうな江戸のスイーツもたくさん登場します。
笹木一『鬼にきんつば 坊主と同心、幽世しらべ』を、5日連続で試し読み特別公開いたします。

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鬼にきんつば

鬼にきんつば

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       三

「おい、見たか」
 北町奉行所の同心部屋で、同僚の田崎慎太郎がひそひそと話しかけてきたので、何やら書き物をしていた小林同心は手を止めた。
「見たって、何をだ」
「河原さんだよ。昨日は非番だというのに突然やって来て、今朝も出仕するなり石田さんに願い出て、何か調べている」
 石田というのは、過去の事件や判例などの記録を管理する例操方れいくりかたの与力である。
「ほう、何かあったのかな」
「俺は出仕した時に顔を合わせたのだが…その、顔がな、いつにもまして…」
 その時、当の河原小平次がぬっと部屋へ入ってきた。その姿を見た小林同心は、「う」と小さく声を出し、危うく手にしていた筆を取り落としそうになった。
 苦々しげに口を引き結んだ小平次の顔色はすこぶる悪く、充血した両目の下には青黒くくまが浮いている。枯れつくした大地の干割れのごとく深く刻まれた眉間みけんのしわが、ときおりひくひくと震える。机の前に座り、腕を組んでじっと考え込んでいるその姿は、見ているだけで女難除けのご利益りえきでもありそうな迫力である。
「今日はまた、一段と恐いな。顔が」小林同心は息を呑んだ。
「そうだろう。なにか、よほど腹に据えかねる事でもあったのか…」
 他の同心たちも、小平次の顔面から発せられる殺気に身を硬くし、同心部屋は咳払いひとつできぬ程の重い沈黙に包まれている。
「おうい、河原よ」
 そこへ、平林清三がのんびりと現れた。平林は五十に近い穏やかな与力で、河原小平次の直属の上司だ。平林与力は、座り直した小平次の横へ気軽く腰を下ろした。
「何やら、調べ物だって?」
「はい。長谷川町の周辺で起きた事件などを、少々」
「そうだとなあ。さっき石田が言うていたよ。何かあったのか」
「いえ、あの辺りで…もめ事があったとか、耳にいたしましたので。念の為に調べてみました。しかし、今のところは何も見つかっておりませぬ」
「そうか。まあ、何事も得心がゆくまで調べてみることよ。それが我らのお役目だ」
 にっこりと言って、平林は小平次の肩をぽんぽんと叩いた。
 平林与力は、筆頭同心であった亡き父の年の近い上司であり、友人でもあった。共に剣術を学んだ同門の士でもあったが、「わしは手筋が悪くてのう。だがおぬしの父は、それは強かった。捕り物では何度この命を助けられたか知れぬ」なつかしげにそう言っては、こだわりもなく笑う。人柄も風貌も父とは正反対なのだが、その父が亡くなった時、亡骸なきがらを前に肩を震わせ泣いてくれたただ一人の人でもあった。
「は。心得ました」
 両手を膝に置き、きっちりと頭を下げる小平次に目を細め、うんうんとうなずいた平林清三は、来たときと同じくのんびりと部屋を出て行った。
 平林の小さな後姿を見送ってから、小平次はわれ知らずふといため息をついた。やはりあの長屋で事件が起きた記録などなかった。つまり人知れず殺人が行われ、闇にほうむられたことになる。しかしその事実よりも、またあの家に行かねばならぬということが、小平次の胸を鉛を吞んだ如く重くしている。本当に、あの家には幽霊がいるのだ。思うだけで背筋が凍り、昨夜もろくに眠れなかった。
 幼少から己を厳しく鍛え続けてきた河原小平次は、とらが出ようと蛇が出ようとおくすることなどない。しかし相手は、自分がこの世でただ一つ、子供の頃からどうしても克服し得なかった恐怖の親玉、幽霊。それがあの家にいるのだ。だがいきおい、明日また来ると蒼円に言ってしまった手前、行かぬわけにはいかん。ここで逃げては武士の恥。鬼河原がこれしきのことで。しかしどう考えても恐ろしい。怖くて仕方がない。いやしかし。
 と、頭の中で同じ反問を繰り返し、小平次は蒼円の家の戸に手を掛けたまま動けずにいた。今日の小平次は奉行所から直接やって来たので、藍鼠色あいねづいろの着物に黒の羽織といういでたちである。