知人が大腸内視鏡検査を受けたという世間話を聞き、自身も検査したら……作家「平野啓一郎」が明かす最新作の“リアルに怖い話”
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平野啓一郎さんの最新刊で10年ぶりとなる短篇集『富士山』は、10月17日の発売直後からその面白さが話題を呼び、はやくも重版が決定したという。
ごくありふれた人物の「あり得たかもしれない人生」を描いた5つの短篇作品のなかでも、とりわけ40~50代の読者にとって「身に覚えがありすぎてリアルに怖い」と評判になっているのが「息吹」だ。
ライターの吉田大助さんは「今年読んだ本のなかでも、ぶっちぎりに怖い話でしたね」と語り、昨年自宅で倒れて救急搬送された女優・作家の中江有里さんも、「もし自宅以外の場所で倒れ、救急搬送に時間がかかっていたら……ふと、考えることがある」と、この短篇が人ごとではなかった心境を明かしている。 作品の誕生秘話を、著者の平野さんに聞きました。
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「息吹」では主人公の齋藤息吹が、ふとした偶然で大腸内視鏡検査の話を聞いたことで、少しずつ不可思議な現象が起こり始め、家族の平穏な日常が“もうひとつの日常”に侵食されていきます。
「僕自身も、ほんとうにたまたま、知り合いが大腸内視鏡検査を受けたという世間話を耳にしまして、それがこの短篇を書くきっかけになったんですよね」と平野啓一郎さんは語る。
「何の自覚症状もなかったのですが一応検査を受けてみたら、ポリープが見つかって切除したんです。でもそのひとつがかなり大きくなっていて、放置していると数年でがんになるリスクが高いものだったと医者に言われて、正直愕然としたんですね。こんな些細なことで、人生が変わってしまうのかと」
もし、あの時、たまたま知り合いの話を聞かなかったら……。平野さんは50代に差し掛かった頃に、手の施しようがない状態の大腸がんが見つかった自分の姿がありありと目に浮かんで、気持ち悪くなってしまったという。
主人公・息吹もまた同様の妄想に囚われるが、こちらは次第にのっぴきならない状況に陥っていく。夫の異変に気付いた妻の絵美は、最初こそ夫の話を荒唐無稽なものとして取り合わなかったが、やがて瘦せこけた夫の顔すら目に浮かぶようになり、彼女自身の感覚までがおかしくなっていることに気づく。
この短篇は平野さんが「Audibleオーディオファースト」作品として書き下ろし、人気声優の立花慎之介さんによる朗読で2023年10月に配信されたもの。つまり文字で「読む」よりも先に、耳で「聴く」作品として発表されたのだが、その違いは意外なところで効果を発揮している。
「耳から先に入るということで、例えばキャベツの千切りの緑色とか、それぞれのシーンの中で色彩を印象付けるように意識して書いたところはあります。でも聞いた方からの反応で一番大きかったのは、ここで話が突然終わるのか!と驚いた、というものでした。これは僕も想定していなくて、朗読ならではの反応ですね」と平野さん。
紙の本ならば、残りページでラストが近づいていることがわかるが、Audibleにはそれがない。果たして「かき氷を食べてがんになった自分」とは、息吹の妄想に過ぎなかったのか、それとも「かき氷を食べずにポリープを切除して助かった自分」こそが、最初から幻だったのか。ハラハラしながら結末を待ち望んでいると、ぷつりと物語が終わる。それがまた、どうしようもなく怖い。
耳で味わうこのスリルもまた、新しい小説の楽しみ方と言えるだろう。
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【Audibleで「息吹」を聴く】
Audible版『息吹 』 | 平野 啓一郎 | Audible.co.jp
【「息吹」を含む最新短篇集『富士山』全篇が、早くもAudibleで聴けます】
Audible版『富士山 』 | 平野 啓一郎 | Audible.co.jp
【もっと読む】『富士山』(平野啓一郎著、新潮社刊)収録の「息吹」の試し読みはこちら。