【試し読み】平野啓一郎最新短篇集『富士山』②「富士山」
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結婚を決めた相手のことを、人はどこまで知っているのか。
マッチング・アプリで出会った男・津山と旅行中、停車中の新幹線の車窓からSOSを出す少女に気づいて助けに走った加奈。その際、行動を共にしなかった津山と加奈は疎遠になるが、5か月後、丸の内線車内で起きた刺殺事件で津山の名が報じられる。
平野啓一郎さんの最新刊『富士山』(10月17日発売)は著者10年ぶりとなる短篇集。ごくありふれた人物の「あり得たかもしれない人生」を描いた5つの短篇作品の、それぞれ冒頭部分を5日間連続配信します。第2回は「富士山」です。
平野啓一郎さんからメッセージです。
「あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、何故、今のこの人生なのか?──幸福の最中にあっても、不幸の最中にあっても、この疑問が私たちの心を去ることはないだろう。誰かを愛するためには、自分の人生を愛せないといけないのか? それとも、自分の人生を愛するために、私たちには、愛する誰かが必要なのか? 些細なことで運命が変わってしまう。これは、絶望であるかもしれないが、希望でもあるだろう。私たちの善意は、大抵、ささいなもののように見えているのだから。私たちが前を向くきっかけは、確かに、どこにでもあり得る」
読者の皆様からも「登場人物の心情を敢えて書かず、読者の想像に任せてくれたので、読後に、推察する楽しい時間を持てた」との声をいただいている話題の短篇をお楽しみください。
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二〇二〇年六月初旬のことだった。
前月末にようやく最初の緊急事態宣言が明け、井上加奈と津山健二は、東京駅の八重洲口で二ヶ月半ぶりに再会した。浜名湖に旅行に出ようとしているのだった。
午前九時の待ち合わせで、時間通りに行くと、もう津山は待っていた。
晴天で少し蒸し暑く、津山は半袖のチェックのシャツにジーパンという格好だった。加奈は、ゆったりとした生成り色のシャツにグレーのパンツを穿いている。
一泊だけの予定で、二人とも旅行カバンは小さかった。
休暇を取っての平日の旅行だったので、東京駅は閑散としていた。勿論、コロナのせいでもあった。
画面越しではない久しぶりの対面で、お互いの言葉が何となく露わな感じがした。
チケットは津山が予約していたが、ひかり号はすべてE席が埋まっていたので、二十八分余計に時間が掛かるこだま号を予約したと言った。
加奈には最初、その意味がわからなかったが、下りの東海道新幹線の座席は、大体、進行方向に向かって、右手窓側のE席から埋まるのだという。富士山が見えるからだった。
彼女は、その説明を聞いて、ぽかんとなった。仕事で関西出張も少なからずあったが、彼女にとって、東海道新幹線は、単なる移動の手段でしかなく、大抵は眩しく、日焼けをしたくないので、カーテンを下ろしてしまう。外の景色を熱心に見たのも、冬に、関ケ原の辺りで酷く雪が積もっていた時くらいだった。
そんなことに、もうじき四十歳になろうかという自分が、今まで一度も気がつかなかったことに、まず呆れた。そして、自分の忙し過ぎる生活を思った。出世して給料が上がり、生活にはゆとりがあるが、ずっと結婚したいと思っているのに未婚で、何となく、いつも疲れている。それが、彼女がサマライズする自身の生活の現状だった。
それにしても、わざわざ富士山のために、遅いこだまに乗るべきなのだろうか。彼女は、富士山に何の関心もなく、車窓から一瞬見えたといって喜ぶのも幼稚な感じがしたが、それよりも、津山のそうした拘り方に、今まで気がつかなかった、彼の中の面倒なところを垣間見た気がした。
とは言え、切符を手配してくれた彼への気兼ねもあり、その場では、ただ礼を言っただけだった。二人で一緒に時間を過ごすための旅行であり、急ぐわけでもない。精算は、ホテル代を含めて、あとで改めてするつもりだった。