一話まるごと試し読み!「帰還の壺」【1】
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「青島さん、警察から連絡だって」
出社してすぐ、同僚の金さんが声をかけてきたとき、私は、えっ何、悪いことはしていないけど、そんなふうに答えた。
あのときは――今もそうだけれど、私は自分のことだけしか考えられなかった。ただ、これまでやったことのある些細な悪事を思い出しながら、どうしよう、あれかな、これかな、とそういう心配だけをしていた。
まさか裕也のことだなんて。本当に、夢にも思わなかった。
病院にかけつけても、私にできることは何もなかった。看護師の説明は何一つ頭に入ってこなかった。ただ、一つだけ頭に残った言葉を反芻していた。その言葉は覚えていないけれど、希望のような、つまり、大丈夫ですというような。
一時間くらい経ってから夫がやってきて、彼の顔は汗まみれで、それ以外のことはやはり覚えていない。
手術室から青白い顔をした先生が出てきたとき、もう結果は分かっていたように思う。
残念ながら、手は尽くしたのですが。生命維持装置を外したら、裕也は。
私が病院に着いたのは朝の十時を少し過ぎたところだったのに、そのときは日付が変わる直前で、先生は十時間以上も頑張ってくれていたのだな、と思った。
「裕也頑張ったよね」
夫がそう言った。その通りだった。裕也も十時間以上頑張ったのだ。
「頑張ったから……もう……」
夫の顔はぐしゃぐしゃだった。私は何も言えなかった。泣けもしなかった。
それから怒濤のように時間が過ぎ去って、何が起こったか正確に把握できたのは、一年後、裁判の最中だった。
加害者は三十代の女だった。女の運転する車は、保育園の門を破壊し、そのまま庭に突っ込んだ。門の傍にいた裕也と、他二人の園児、それと先生が一人巻き込まれた。裕也以外は、命に別状はなかった。
女はその日、寝坊して、とても急いでいたらしかった。それで、ついアクセルとブレーキを踏み間違えてハンドルを切りそこなったとか。
女には家族がいた。夫と、三人の子供。そう、三人も子供がいたのだ。
しっかりと罪を償っていくのが一番の供養になると堂々と言ってのけた。
■刑にしてくださいと私は叫んだ。視界の端に、心配そうに見守る女の家族が映りこんだ。
■刑にしてください。極刑を望みます。
何度も叫んで、涙と鼻水を飛ばして、私は退室させられた。そのときは納得がいかなかったけれど、よく考えれば当たり前だ。裁判とは被害者の心に寄り添うものではなく、起こったことを機械的に判断して、判決を下すものなのだから。
懲役三年、執行猶予五年。それが私からたった一人の子供を奪った女に対する司法の判断だった。
手紙を送ってきたのも許せない。誰にアドバイスを貰ったのか、なんの意味もない謝罪がつらつらと。家族を引き連れて謝りに来たのも忌々しい。殺してやろうと思って、家にある一番長い包丁を持ち出したら、私が何かする前に夫が怒って追い返した。
あの女は生きて、自分の子供を育てている。
私が裕也を育てることはもうない。
あの女に生きて償えることなんて何もない。でも、よく考えたら■んでも償えないと思う。
裕也を返してほしい。
夫に似た下がり眉と、私に似た小さい口。鼻は誰に似たのか、つんと高かった。親の欲目かもしれないが、本人がもし望むならタレントにしてやりたいと思っていた。
でももうそんな未来はない。
裕也が生まれたのは私が三十九歳のときだった。
高卒で就職した会社で、仕事に打ち込んでいたら、あっという間に結婚適齢期を過ぎてしまった。そのこと自体に不満はなかった。私はそもそも、家族というものに不信感しかなかったからだ。
物心ついたときから私の家の中心は父と長男の雄一だった。いや、中心というよりも、あの家に「人間」はその二人しかいなくて、あとはいいところ家畜だった。
弟の雄三は体格に恵まれ、全国大会に出るようなバレー選手だったのに、父親の「玉遊びなんて下らない」というひとことで全寮制の高校に入れられて、結局大学入試も就活も失敗して、今は父親の口利きで入った会社で無気力に働いている。それでも雄三は男だったからまだましだ。私は女だったから、大学受験すらさせてもらえなかった。
私は小・中・高とずっと成績が良かった。しかし父は、女というものは下手に知恵をつけても生意気になるだけで、何も意味がない、と言っていた。
とはいえ、私は中学生のときからそのようなことを言われていたので、高校生の早い段階から家を出る準備をすることができた。できるだけ多くの資格を取って、高卒の人間が選べる最大限に条件のいい会社に入り、なるべく実家から遠いところに家を借りた。
そんな私が結婚したのは、地域で開催している読書会に気まぐれに参加したからだ。
夫とはたまたま手に取った本が同じだったことで意気投合し、半年付き合ってから結婚した。彼が三十五歳、私が三十六歳のときだ。
お互いもう恋愛するのには歳をとりすぎていたかもしれないが、彼は穏やかで優しくて、私は結婚して初めて、安心を求めて帰宅するということを知った。少なくとも私は、彼との子供が欲しいと強く思った。
しかし、強く思っただけで子供が生まれるなら、不妊で悩む女性などいないだろう。何度も病院に通って治療して、何回も悲しい思いをして、やっとお腹に宿ってくれたのが裕也だった。
夫と同じように、夫の家族も優しい人たちで、わざわざ東京まで出てきて、心理的にも経済的にも私たちを支援してくれた。妊娠を報告したとき、自分のことのように喜んでくれた。
ああ本当にこの家族の一員になれてよかった――私はあのとき幸せの絶頂にいた。
「桜子さん、病院に行った方がいいよ」
あのときと全く変わらない優しい口調で、夫は私にそう言った。
「ごめんね、君がおかしいって言いたいわけじゃないんだ、でも……」
夫の声が震えている。
ああ、本当に申し訳ない、と心から思う。優しいこの人に何もかも任せて、私だけ勝手に壊れてしまった。
でも、もう笑えない。怒ることもできない。
私は仕事を辞め、近くの心療内科に通うことになった。
私が思っていた――つまり偏見なのだが――それとは大きく違い、『かぶらぎこころのクリニック』は清潔で、静かな空間だった。
問診票に記入したあと、待合室の長椅子に座って目を瞑る。なぜか父のことを思い出す。彼は私が心療内科に通っている、と告げたら非難するだろう。親子の縁を切ると言い出すかもしれない。平気で差別的なことを言う人だったから――。
父のことを考えてはいけない。余計に頭が痛くなって、ますます髪の毛が薄くなる。
名前を呼ばれたので、クリーム色のスライドドアを引いて入室する。
同世代くらいの男性医師が、パソコンを睨んでいる。
よろしくお願いします、と声をかけると、彼はこちらの方など見もしないでおかけください、と言った。
鏑木と名乗った医師は、看護師から受け取った問診票を上から下まで無言で眺めたあと、
「で、どの症状を治したいんですか?」
思わず、え? と聞き返すと、鏑木はまったく同じセリフを同じ調子で繰り返した。
「どの症状を治したいんですか?」
「どのって……」
問診票の『お困りの症状』はどれも当てはまることばかりだった。
不安、疲れやすい、緊張が強い、眠れない、食欲不振、些細なことが気になる――だから、全てに〇をつけた。
鏑木は戸惑う私を見て、苛立ったようにカチカチとボールペンを鳴らした。
「治療のー、ゴールはー? と聞いてるんです」
「そんなの、わ」
分かりません、という前に、鏑木は大きくため息を吐いた。あまりの対応に唖然としている私の様子など気にも留めず、鏑木は言葉を続けた。
「患者様が何を求めるか分からなきゃ、アプローチのしようがない」
「嫌なことばかり思い出して、ずっと眠れなくて……でもそれより、まず、話を……聞いて欲しくて」
「はあ、眠れない、なるほど」
鏑木はパソコンに向き直り、必要以上に大きな音を立てて何か打ち込んでいる。
しばらくして、パソコンの右横に付いたプリンターから紙が出力された。
鏑木は紙を私に手渡して、
「睡眠薬、出しておきましたから」
「えっ、あの……」
「うちでは別にセンターがあって、そこにカウンセラーがいます。カウンセリングの予約は受付で取ってください。お大事に」
言葉を挟む間もなく、私はふたたびロビーに戻されてしまった。
私は辛くて辛くて、夫にも、周りにも迷惑をかけている。日常生活が送れていないことも、自分がまともでないことも自覚がある。
だからこそ、ここに来たのに。
完全に元の通りになるなんて思っていないけれど、少なくとも、夜中に飛び起きて泣き喚いたりしないで済むかもしれない、と期待して。
それとも、私は自分で思っているよりずっと、おかしいのだろうか。
私の話は、私の主観が入っているわけだから、本当はもっとずっと滅茶苦茶な要求を鏑木にしてしまっていたのだろうか。だから向こうも気分を害して、こんな対応をしたのだろうか。
呆然としたまま椅子に座っていると、名前を呼ばれる。私はのろのろと立ち上がり、会計を済ませ、働かない頭で予約をいつにするか考えた。
***
結局私がカウンセラーに会ったのは、十一月の半ばだった。なかなか予定が合わなかったのと、最初に予約した日は、どうしても気分が落ち込んで家から出られなかったからだ。
カウンセリング自体、義務感で受けることにしただけだ。話を聞くだけで解決などあり得ない。優しくて、私を否定しない人ならば夫や、夫の両親がいる。カウンセラーが彼らより私のことを理解できるとは思えない。
彼らのことを思い出して、また頭に希■念慮がちらつく。こんなに支えてくれる家族がいるのに、私は未だおかしいままで、申し訳ない。
昨日だって、裕也の夢を見て、夜中に飛び起きて裕也を探し回った。夫は深夜の三時に起こされたのに怒りもしないで、私の手を握って懇々と「もう裕也は天国にいるんだよ」と言った。私は本当に頭がおかしい。■んだ方がいい。
希■念慮が私の足を動かなくする前に、ガラス張りの建物の中に入って、エレベーターで三階に上がる。
清潔感のある白い壁に『かぶらぎこころのクリニック』と同じ丸っこいハートマークが描いてあり、『かぶらぎカウンセリングセンター』という緑の文字が存在感を放っている。
「お待ちしておりました」
入るなりそう声をかけられる。俯いたまま体がビクリと震えた。
「あ、は、はじめ」
顔を上げて、そこまでしか言えなかった。
目の前にいる男の瞳があまりにも綺麗だったからだ。
何色とも言えない複雑な色の虹彩が、蛍光灯の光を反射している。星みたいだ、と思った。
本当に一瞬だけ、私は辛さを忘れて、目の前の男に見惚れてしまった。
「青島桜子さん……?」
はい、という言葉さえ出てこなくて、頭だけががくがくと揺れた。
「どうも、こんにちは。外は天気がいいですね。気温は低いけれど、風はそこまで強くない」
「え、ええ……」
なんとか相槌を打つが、全く冷静でいられない。心臓がばくばくと脈打ち、顔が上気しているのが自分でも分かった。
どうにか気持ちを鎮めて、まともに会話ができるようになったのは、彼に促されて椅子にかけたときだった。
「カウンセラーの久根です。久根ニコライです。久根さんでも、ニコライでも、ニコちゃんでも、どういうふうに呼んでも構いませんよ」
歴史の教科書で、ロシア皇帝ニコライ一世、という名前を見たことがある。彼はロシア系のハーフなのだろうか。顔は整っているけれど、今までだってこの程度にかっこいい人なら何人か見たことがある。しかし、本当に瞳が、抜き取って飾りたくなるくらい綺麗なのだ。こんな瞳の人間はきっとハリウッドの俳優たちの中にもいない。色素の薄い感じともまた違って、とにかく、きらきらと輝いている。
「あ、青島桜子です……」
「はは、存じ上げております」
久根が口を開けると、尖った犬歯が覗く。獣の牙のようなのに、彼の醸し出す雰囲気はあくまで柔和だった。
「早速ですが、いまお辛いことは?」
「私……あの、私」
一番辛いこと、と聞かれて、鏑木の言葉が蘇る。
ちーりょーうーのー、ゴールはぁー?
また何も言えなかったらどうしよう。また馬鹿にされたらどうしよう。また、迷惑をかけてしまったら。
「大丈夫」
頬に滑らかな感触が滑った。
「大丈夫ですよ。ゆっくりで」
つるりとした指だった。暖かさはない。それでも、私は頬を撫でられて、何故か自分の罪が赦されているような気持ちになる。先ほどとは全く違った意味で、涙が溢れて来そうだった。
涙が零れないように顔を上げると、久根と目が合う。
久根は恐ろしいほど美しい双眸で、私を静かに見つめていた。
「時間はありますから」
***
久根は優れたカウンセラーだった。
暗く、とりとめもなく、何度も繰り返す私の話を、全て聞いてくれる。
余計なアドバイスは一切しなかった。他のカウンセラーのことは知らないが、もしかして、話を聞いてもらっているだけなら無意味とか、カウンセラーとしておかしいとか言う人もいるかもしれない。
でも、鏑木の処方した薬と、久根のカウンセリングで、私の体調は明らかに良くなったのだ。
決まった時間に起きて、朝食を作り、夫を送り出す。たったこれだけのことだが、少し前の私にはできなかった。
「あのね、また働いてみようかと思うの」
私は求人広告サイトを夫に見せる。近所のホームセンターのオープニングスタッフ。ここなら、未経験者でも働けるということだし、オープニングスタッフなので人間関係に悩まされる確率も低いだろう。
「確かに、最近桜子さんはぐっと良くなったよね。笑顔も増えて、僕はすごく嬉しいよ」
夫は柔らかい声で言った。
「カウンセラーの先生の話もよくするよね。その先生には感謝してるよ。少し嫉妬はしちゃうけど」
「そんな、先生とは勿論、何もないよ。確かに、かっこいい人だけど、それだけだし」
「でもね」
夫は私の言葉を遮って、
「まだ、働くのはやめておいた方がいいと思う」
喉がひゅうと鳴った。
「桜子さん、昨日、言ったよね」
手が震える。
「一緒に、テレビ見てたときに……『裕也のランドセル何色にする?』って……」
「やめて」
想像より大きな声が出た。夫が息を呑んだのが分かる。
「ごめんね、でも」
その先を聞きたくない。
「もう働くなんて言わないから」
「違う、僕、そんなつもりじゃ」
裕也が■んだということが、分からない。
「今日、カウンセリングだから、もう、行くね」
私は立ち上がって、コートをハンガーからもぎとった。そのまま駆け出す。カウンセリングの予定なんて本当はない。
久根は、裕也の話には、一度だって口を挟まなかった。■んでいるとか、生きているとか、そんな話は一度も。私の話を聞いて、それで。
町中のどこからでもクリスマスソングが聞こえる。
ひいらぎなんか飾らないし、ベルなんか鳴らさないし、クリスマスは恋人たちのためのものではない。クリスマスが来たところで悲しい出来事はなかったことになんかならないし、サンタクロースなんかいない。
「皆で、私を馬鹿にしているんだ」
楽しそうに歩いていた家族連れがこちらを見ている。カップルのきゃはは、という笑い声が耳に刺さる。私を馬鹿にしている。
「馬鹿になんてしていませんよ」
声が耳を通って、脳に抜けていく。
手首に暖かいものが触れた。
「あなたを馬鹿にする人はいません」
顔を上げる。
眩しすぎて、思わず目を瞑った。目が潰れそうだ。
「皆さんは祝っているだけだ」
久根が私の手首を優しく握って微笑んでいた。
***
「落ち着きましたか?」
「はい……ありがとうございます」
久根が出してくれたのは、暖かくて甘い、果物の味がする飲み物で、私の体はすっかり温まった。ふんだんに使われているであろうスパイスのおかげかもしれない。
「これ、美味しい。あまり飲んだことがない味です。どこで買えますか? 主人にも、飲ませてあげたい」
「お気に召したようでよかった。これは私が作ったものなんですよ。よろしければ帰りに原液を取り分けましょう」
久根は長い指でカップの取っ手を弄んだ。
久根の美しい佇まいを見ていると、羞恥心が湧いてくる。ヒステリーを起こして、優しい夫を拒絶して。
久根の年齢を聞いたことはないが、恐らく私より一回り以上下だろう。二十代にも見える。でも、もしかしたら同世代かもしれない、と思うくらいにはいつも落ち着いている。こんなに若くて綺麗な男性が、クリスマスイブに小さな部屋で中年女と話す羽目になっているのは可哀想だ。ますます申し訳ないと思う。
「大丈夫ですよ」
久根は口角をもう一段階上げて言った。
鼓動が速くなる。久根には、私の中まで、全て見えているような気がする。
綺麗に切りそろえられた爪が繊細な指に並んでいる。
ふと、久根は私の頭に手を置いて、上下に動かした。
「青島さんは、善い方ですね」
自分より年下の異性に頭を撫でられている。異様だし、不健全で、あってはならないことかもしれない。でも私はそれを自然に受け入れてしまっている。久根の手は心地好い。ずっと撫でられていたいとさえ思う。
「善い方には、プレゼントがあります」
久根はちょっと待っててくださいね、と言って部屋を出て行った。
私は先ほどまで久根の手が置かれていた部分に手を這わせて、自分でも頭を撫でてみたが、何も感じなかった。
しばらくして久根は、壺を抱えて戻ってきた。
大きな壺だった。
久根の身長は、多分一八〇㎝くらいある。壺は、その久根の胸辺りまであった。
「ええと、これは?」
「プレゼントですよ」
久根は椅子に腰かける。そうすると、久根の頭とちょうど同じ位置に壺の口があるように見えた。
「キカンの壺です」
「キカン……?」
「帰還。帰って来るということです」
薄茶色の、何の模様もない壺が美青年の前に鎮座している。
「これは……」
「これは帰還の壺。その名の通り、人が帰って来る壺です」
久根は拳を作って、コンコン、と壺を叩いた。何も入っていない、高い音がする。
「裕也君は三歳だった。であれば、一五㎏くらいでしょうか。一五㎏の肉を、この壺に入れて、塩水に漬けて下さい」
「え……」
「大丈夫です。ヒトは肉と、塩と、水でできています」
「久根さん!」
勢いよく立ち上がる。椅子を引っくり返してしまい、大きな音が鳴った。
久根は微笑みを絶やさないまま、椅子を起こした。
「どうしたんですか、青島さん」
久根の表情は変わらない。口角が上がっていて、目は星のように輝いている。
「裕也君にまた会いたいのでは」
何度も何度も深呼吸をして、頭に上った血が引くのを待ってから、私はふたたび椅子に腰かけた。
「裕也は、三歳のときに……事故に、遭いました。言葉は、慎重に選んでください。久根さんには、感謝しているけれど……」
「ええ、だから、その裕也君の話をしています。裕也君が帰って来るという」
「ふざけないで」
体と連動して声の震えが止まらない。
「裕也は」
言ってはいけない。
「裕也は、事故で」
言ったら真実になってしまう。私だけは、絶対に言ってはいけないのに。
「死んだんですよ」
死んだんですよ。
死んだ。
裕也は死んだ。
裕也は、事故で、死んだ。
死んだ。
ランドセルは必要ない。
死んだ。
誕生日は来ない。クリスマスも来ない。
裕也は、もう、死んでしまった。
「死んでいないと信じていたのは青島さんでは?」
「ふざけないでよ、あなた、それはっ」
「ふざけていません。それに、あなたは正しい。死んでいるとか生きているとかは、ヒトの認識の問題ですからね。死んでいない。正しい、正しい」
久根は笑みを浮かべたまま――いや、笑っているのではない。元からこういう顔なのだ。私を馬鹿にしているだとか、私の悲しみに共感しているだとか、そういったことは一切ない。
「説明を再開してもいいですか? 絶対に守らなくてはいけないルールがありますので」
本当に、嘘偽りなく、彼は道具の説明をしているだけなのだ。
私の首がかくん、と動いた。
***
自分の身長と同じくらいの高さがある壺を抱えてよろよろと帰宅した私を見て、夫は目を丸くして驚いた。
普段、私の行動にとやかく口を出したりしない彼も、さすがに黙っていることはできなかったらしく、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
一体、どこへ行っていたのか。約束とは何だったのか。何より、その壺はなんなのか。
隠しても仕方がないから、私はすべて正直に答えた。
久根と会って、カウンセリングルームにいたこと。そこで、プレゼントとしてこの壺を渡されたこと。そして、壺の説明。
夫は口を閉じたまま、私が話すのを聞いていた。何事も頭ごなしに否定せず、まず耳を傾けてくれる。冷静に判断し
た上で発言する。こういうところを、私は好きになったのだ。
「それで、今からお肉を買いに行こうと思うの。一五㎏」
夫はふう、と大きく息を吐いた。そして何度か口を開きかけ、また閉じるということを繰り返した。何度目かに彼は、決意したように両手を組んで強く握り、やっと声を出した。
「確認なんだけど、お金を取られたりしていないよね? 勧誘を受けたりだとか」
夫の言わんとしていることははっきりと分かる。
「大丈夫だよ」
私の話すことには怪しい部分しかないだろう。私だって、普通の状態だったらこんなことは信じないし、誰かに話したりはしない。
久根の佇まいを夫に見せたかった。そうすれば、信じるに決まっているのに。
「大丈夫……か」
夫はそう呟いて、ソファからゆっくりと立ち上がった。
警察に通報するつもりかもしれない。でも、そうなってしまったら、裕也が。
「ねえっ、本当に、大丈夫だよっ」
夫のシャツの裾を掴む。声が震える。
久根ニコライは、裕也との再会を可能にする、唯一の希望なのに。
「うん。だから、車を出そうと思って」
「えっ」
夫は優しく笑っていた。
「桜子さん、一五㎏のお肉を一人で買って来ようと思っていたの? いくら桜子さんが頑張り屋さんでもそれは無理だよ。それに、近所のお店には、そんなに置いていないかもしれない。ちょっと遠出になってしまうけど、業務用スーパーに行けばあるかもね」
「ええ……」
夫は本当に、通報したり、久根や、帰還の壺の話をしつこく聞いてくることもなく、車を出した。
人が三人くらい入りそうな大きなカートに、冷凍の豚の塊肉を投げ込んでいく。消費期限も、肉の質も気にしない。何の肉でなくてはいけないとか、久根は言わなかった。
まず食事にしよう、と言う夫を無視して、帰宅してすぐに壺に豚肉を投げ入れた。その上から、豚肉と同じく業務用スーパーで買ってきた食塩を大量に振りかける。
キッチンの蛇口からホースを引いて、肉が完全に漬かるまで水も注ぎこんだ。
裕也が帰って来るとしたら、どこからだろうか。
壺の口は、小学生くらいならぎりぎり通れるかもしれないくらいには広い。それとも、桃太郎のように、壺を割ってでてくるのだろうか。
「蓋を閉じないと」
背後から夫の手が伸びてきて、壺の蓋を閉じた。ごとりと重い音がする。
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。また死にたくなってしまう。夫は帰って来た時からずっと食事にしたいと言っていた。裕也は私の宝物だ。でも、夫も同様に、私の宝物なのだ。そんな夫を無視して――
「簡単に、パスタとかにしようか」
夫は野菜室からトマトを二つ取り出して言った。
「色々、考えすぎないでね。僕と桜子さん、二人なんだから」
私は曖昧に頷いた。笑うことも、泣くこともできなかった。
トマトとケッパーのシンプルなスパゲティと、頂き物のあまり美味しくないワイン、それと混ぜるだけのチーズデザートを食べた。
しばしば夫の様子を確認したが、いつもと全く変わらず、面白かった本や映画、ニュースの話などをしていた。
夕食が大幅に遅れたにしては、随分早い時間にベッドに入ることができたと思う。夫はよほど疲れたのか、横になってすぐ眠りに落ちてしまった。すうすうと寝息が聞こえる。私はいつもそれを聞くと落ち着いて、眠れなくても多少なりとも休んだ気持ちになれるのだった。
しかし今日は全く落ち着かない。夫の寝息ではなく、時計の針の音ばかりが気になる。
卓上の小さいライトがぼんやりと天井を照らしている。
危険だ。こういうことは前にもあって、そのとき私は衝動的に、処方された薬を大量に飲んだ。無理やり喉に指を突っ込んで吐き戻したから、病院に迷惑はかけていない。でも、とにかく、これは希死念慮の前触れだ。
親指を握りこんで、目をぎゅっと瞑る。
死にたい、という言葉が脳裏を過る寸前に、強く、早く朝になれ、と頭の中で叫ぶ。
別のことを考えようとしても何も思い浮かばない。体の芯が冷えて苦しい。
バタン、と音が聞こえた。これは聞いたことのある幻聴だ。扉が開く音。
何度も裕也が帰ってきたのだと思った。裕也が寂しくて、私と夫のベッドに入ってこようとしているのだと。もちろん、そんなことはあり得ない。でも、私は何度でも期待してしまう。裕也、と呼んでしまう。
夫を起こさないようにそっと体を起こし、ベッドから抜け出る。
バタン。
また音がした。
全身が総毛立つ。裕也がどうとか、甘いことを言っている場合ではない。
バタン。バタン。
これはドアが開く音などではない。硬いものが硬いものに勢いよくぶつかっている音。空き巣、強盗、とにかく、家に、私たち以外の誰かがいる。
足音を立てないようにベッドに戻り、夫の肩を揺する。
あなた、起きて、と、扉の向こうにいる何者かに聞こえないように囁くが、夫はやはりすうすうと寝息を立てて眠っていて、起きる様子はない。
警察、という二文字が浮かんだのは、しばらく経った後だった。その頃にはもう音はしなくて、ただただ、恐ろしいほど静かだった。ずっと死にたいと思っている私が、強盗に殺されるのを恐れるなんて馬鹿馬鹿しい。強盗だって、わざわざ眠っている人を殺さないだろうから、夫が殺されることもないはずだ。
念のため、いつでも通報できるようにスマートフォンを持って、玄関に向かってみるが、ドアチェーンはかかったままだ。わざと大きめの足音を出してみても、人の気配はない。
結局これは、私の幻聴だ。
「ふふふ」
含み笑いが漏れた。笑いが止まらない。本当に私は頭がおかしい。
今日の行動を全部振り返ってみる。何もかもおかしい。
帰還の壺? あり得ない。人間が塩と水と肉でできている? 何を言っているんだろう。人間は豚じゃない。あの久根という男はどういうつもりなのだろう。異常者か、詐欺師か。いずれにせよ、まだ若いのに、とんでもない男だ。
もうあんなカウンセリングに通うのはやめよう。
こんなとんでもない話を信じて、付き合うふりまでしてくれた夫に申し訳が立たない。
もうやめよう。終わりにしよう。全部、やめて、いい機会だし、それで――
バタン、と音が聞こえた。先ほどと同じで、でもずっと近い。
もういい。幻聴でも、殺されても。むしろ殺されたい。自殺よりずっと、夫に迷惑をかけない。
耳を澄ませて、音の発生源を探す。キッチンだ。
キッチンを確認して、やっと、笑いが止まった。
壺だ。あの壺が、帰還の壺が、バタンバタンと音を立てている。意思を持ったように左右に揺れている。
「ゆ、う、や」
壺が、返事をするかのようにますます激しく揺れた。
私は蓋を開けた。
(【2】へつづく)
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