一話まるごと試し読み!「帰還の壺」【2】
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「久根さん」
久根ニコライは濃いブルーのシャツを着ている。ぱきっとした色が、彼の抜けるように白い肌を引き立てている。
不思議な色の瞳でまっすぐに視線を向けてくる。
私は下を向いた。あの目で見つめられると、何も言い返せなくなってしまうから。
「なんでしょうか。遠慮なく仰ってください」
顔を見なくても、美しい唇が綺麗に弧を描いているのだろうなとわかる。
「壺の、ことですけど」
「ああ、帰還の壺ですね」
「それです。あの……言われたとおりに、やりましたけど」
「いいですね。すぐ行動に移すのは素晴らしいことです」
思わずありがとうございます、と言いそうになって、唇に力を籠める。そんなことを話したいのではない。
「無かったんです、何も」
あの夜、ごとごとと揺れる壺を開けてみて、視界に入ったのは少し濁った水だった。底の方にうっすらと肉が沈んでいるのが見えたものの、それだけだった。
「久根さん、本当のことを言ってください。私に、嘘を吐いてるんですよね」
私は何か言おうとしている久根を遮った。久根の言葉には異様な説得力がある。久根に好きに喋らせてしまったら、また訳も分からないまま彼の言うことを信じて、彼の言う通り行動してしまうことになる。
「分かってます。あの壺に、何か細工があるんですよね。がたがた動いて、まるで、中に何かいるみたいに。でも、開けたらやっぱり何もなかった。正確に言うと、入れた時と同じで、肉が水に沈んでいるだけでした」
一度言葉を切って、深呼吸をする。久根がその間に言葉を挟むことはなかった。
「久根さんが、悪意で嘘を吐いたんじゃないことは分かってます。私、確かに、おかしいです。裕也が……って、認められないし、毎日、探したりします。料理も、三人分作ったり。だから、可哀想に思って、優しい嘘なんですよね。でも、残酷です。希望を持たせて、でも本当に裕也が帰ってくるわけなんかなくて。もしかして、そういう治療法なんだとしたら、もう……やめてほしいです」
一気に言って、もう一度深呼吸をする。薬が効いているのだと思う。今日は変な動悸もしないし、話している最中にパニックになって泣きわめいたりもしない。
はっきりと自分の意見を伝えられた満足感とともに顔を上げる。
「先程から、何のお話をされているんですか?」
久根が星のような瞳で私をじっと見ている。声に何の抑揚もなかった。
高揚していた気分が一気に萎んでいく。
「青島さん、私の話を聞いていませんでしたね。もう一度説明しましょう」
久根は長い足を優雅に組み替えた。
「そのいち、壺に肉、塩、水を入れる。そのに、七歳まで待つ。そのさん、それまでは絶対に壺から出さないこと。三つだけです」
「だ、だからっ……だから、何も……何もなかったって……」
細くて長い指が、私のかさかさとした指と絡まる。
「そんなにすぐに、人間ができるわけ、ないでしょう?」
久根は赤子をあやすような口調で言う。なめらかな指の腹が、私の中指の節を往復する。
「人間はね、父に似せた姿として、六日目に作られた。分かりますか?」
分かります、と私の口が動く。
久根は満足そうに頷いた。
「分かってくださって嬉しい。裕也君は帰ってきます。私の言葉は父の言葉です」
久根の言っていることは理解不能だった。どの言葉も、私の疑念を払拭するものにはなっていない。それでも、やはり久根と直接話すと、彼は嘘は言っていないのだろうと思ってしまう。今も彼は、堂々たる態度で椅子に深く腰掛け、長い足を組み、慈愛すら感じる表情で私にやさしく言葉をかけている。
「何か分からないことがあれば、またいつでもご相談くださいね」
結局、頷くしかなかった。
久根は目を細めて微笑んでいる。
瞳が綺麗だ。
***
ちょうど季節が一周した。
私は未だに『かぶらぎこころのクリニック』に通い続けている。相変わらず鏑木の対応は冷たく、モニターから振り向きもしないで薬を出すだけだ。それでも確実に、私の体調は良くなってきている。薬が合っているのだ。
カウンセリングも続けている。つまり、未だに月に何回かは久根ニコライと顔を合わせている。
最初のうちは壺についてあれこれ質問した。でも、やめてしまった。久根からは望んだ答えは返ってこなかったし、理解不能な言葉でも、私はそれに頷くことしかできないからだ。
壺は未だにキッチンに置いてある。時折ごとごとと音を立てて動くが、私はいちいち騒いだりしない。本来、いくら塩漬けにしているとは言っても、夏場も越えたこの壺が臭わないはずはない。でも、壺からは本当になんの臭いもしないし、虫が発生したりすることもなかった。
久根の言うことを心のどこかで疑っている。しかし、この壺の状態こそが、久根の言うことが本当で、裕也は必ず帰ってくるということを示しているのではないだろうか。
少し前から、私は働き始めた。
もちろんフルタイムではないし、個別指導塾の受付という、あまり複雑なことを要求されない仕事だから、きちんと働いていたころのようにお金を稼げているわけではない。夫や、夫の家族に支えてもらってなんとかやっている状況は変わらない。
「青島さん、今日はもう上がってもらって大丈夫ですよ、ラストの田野中くん、キャンセルだそうなので」
事務長の小松がそう声をかけてくる。
「あ、はい、ありがとうございます」
軽く頭を下げると、小松は何かを思い出したかのようにあっと声を上げた。
「忘れてた忘れてた。これ、どうぞ」
彼女が笑顔で渡してきたのは、真っ赤なショッパーだった。
「たいしたものじゃないんですけど、メリークリスマス、的な」
「あ、ありがとうございます……すみません、私、何も用意してなくて……」
「いいんですよ、そんなの。皆さんに配ってるんですから。それに、私これから、ちょっとご迷惑をかけるかもしれなくて」
「迷惑……?」
ええ、と相槌を打つ小松は、口調こそ申し訳なさそうだが口元が緩んでいる。何を言うか想像がついてしまう。
「子供ができて。こんな年で、恥ずかしいんですけど。それで、産休を取るんです」
小松は私と同い年だ。子供も、もう三人いたはず。
おめでとうございます、と言えた。今度お祝いしなくちゃ、とか、社会性のある言葉も自然に出てきた。笑えていたと信じたい。顔の筋肉が引きつって、ぴりぴりと痛んだ。
帰宅して手を洗ってから、すぐに料理に取り掛かる。仕込みは昨日のうちに済ませておいたから、そこまでやることは多くない。下味のついたチキンを油に投げ込むと、勢いよく油がはねた。
料理は好きだ、特に、揚げ物は。揚げている間は、余計なことを考えずに済む。
赤いショッパーは、駅の近くのコンビニに捨てた。小松は何も悪くない。悪いのは私の精神状態だ。こんな状態なのに普通の人と同じような顔をして働いている私に問題があるのだ。
気が付くと、バットに乗り切らないくらいのフライドチキンが出来上がってしまっている。こんなに作るつもりはなかった。
ため息を吐きながらトングで大皿に移していると、携帯電話が振動した。
『ごめんね、今日は少し遅くなる。ご飯は先に食べてしまって大丈夫です。いつもありがとう』
夫からだった。
仕方がないことだ。クリスマスイブなんて会社には関係がないし、優しい夫が他の人の仕事を肩代わりして、結果帰宅が遅くなってしまうのもいつものことだ。
でも、今日だけは傍にいてほしかった。
右手が動いて、フライドチキンを掴んだ。べちゃりとした油の感触が不快だ。火傷しそうなくらい熱い。機械的に口に詰め込み、咀嚼し、嚥下する。
ハーブの香りが鼻腔に抜けて、とても美味しい。美味しいはずだが、気持ちが悪い。口に詰め込むのをやめられない。ごりごりという音が頭に響く。私の歯が軟骨を砕き、すり潰している音だ。美味しい。金さんが教えてくれたレシピに間違いはない。美味しい。「青島さん、警察から連絡だって」何も悪いことはしていないけど。何もしていない、悪いこと。父は女は何をやっても無駄だと言った。母は何も言わなかった。でも子供を産んで、育てた。私も子供を産んだ。幸せだった。青ざめた医師の顔。夫は頑張ったからもうと言った。あの女は生きて償うと言った。悪いことは何もしていない。「青島さん、警察から連絡だって」何も悪いことはしていない。ちーりょーうーのーごーるはー?ゴールなんてない。裕也が帰ってこないと。「これは帰還の壺ですよ」一五㎏の豚肉。ランドセルを買ってあげたい。「青島さん、警察から連絡だって」裕也は十時間頑張った。私は悪いことはしていない。裕也。帰ってきて。裕也。裕也。裕也。裕也。帰ってきて。どうか。クリスマスだから。裕也、
「裕也」
うん、と声が聞こえた。
どうせ幻聴だ。薬を飲まなくてはいけない。コップに水を注ぐ。
うん、とまた声が聞こえた。薬を飲む。
ソファに倒れこんで、幻聴が消えるのを待つ。これで大丈夫なはずだ。しばらく経てば軽い倦怠感とともに幻聴が消えて、体を動かせるようになる。
じっとしていると静寂が気になる。テレビを点けたいが、リモコンに手を伸ばすのすらしんどい。
うん、という声が連続して聞こえる。人が死んだとき、一番最初に忘れるのはその人の声らしい。かわいい声。小さい子の声。裕也だ。声すら忘れられていない。何も忘れられない。前など向けない。
これは何かの歌だ。なんだったか。私の幻聴なのだから、私の脳内から発されている歌だ。四拍子で、明るくて、童謡、みたいな――
「あわてんぼうのサンタクロースだ」
どうしてすぐに出てこなかったのか不思議だった。
裕也のために買った音の出る絵本から流れる歌。裕也のお気に入りだったから、事故があってしばらくはずっと鳴らしていた。いつの間にかなくなっていたのは、おそらく夫がどこかへ捨ててしまったからだろう。
うんうんうん、うん、うん、メロディーが耳から消えない。
「裕也」
私は分かっていても呼ぶ。
「裕也」
「まぁま」
違う。
幻聴ではない。
「ままぁ」
体が震える。裕也の声だ。
「ゆう、や」
「ままぁ、さんたさんの、うた」
おかしい。こんなのおかしい。
いるわけがないんだから。
裕也が答えるなんて。
「あわてんぼうのーさんたくぉーす」
舌足らずで、まだ「ら」行がうまく言えない。裕也。裕也。
「裕也!」
私は壺に駆け寄って、蓋を開けた。
***
久根は入室する私を一目見て、いつもと違うことに気が付いたようだった。
輝く瞳をより一層輝かせて、私に視線を向けている。
「青島さん、良いことがありましたね」
私は力強く頷いた。
「まずはおかけください」
久根は左手を前に出して、私に腰掛けるよう促した。
私は少し恥ずかしくなって、痒くもないのに頬を擦る。久根が差し出してきた飲み物を一口飲むと、去年飲んだのと同じ、スパイスとフルーツの香りが鼻腔を抜けた。
「それで、青島さん、どうかしましたか」
「歌ったんです」
声が上ずる。
「あの子、私が前教えた歌を、歌って……可愛い声で……」
「それは良かった」
久根は顔の前に手を持っていき、少女のようにぱちぱちと手を叩いた。
「歌は素晴らしいです。父に声が届きやすいですからね」
相変わらず、不思議な言い回しをする男だ。どうして父親が出てくるのか。どういう意味か尋ねても、要領を得ない答えが返ってくるだけだから、私ももう何も聞くことはない。
「でもね、久根さん、私、気になることがあって」
「なんですか?」
久根は女性的なポーズのまま、首を傾げる。父が久根のことを見たら、オカマみたいで気色が悪い、なんて言うだろうか。いや、そんなことはないはずだ。父は久根のような美しい人には甘い。表面的なものしか見られない、下らない人間だ。そういうところが――
また父のことを考えてしまう。久根が「父」なんて言うからだ。彼の話には頻繁に「父」が登場する。
気を取りなおして、
「口だけだったんです。裕也の歌が聞こえたので、壺を覗きました。そしたら、口だけがぱくぱくって動いてて。なんか、ちょっと……正直、どうしたらいいのかなと」
言葉を選びながら、ぽつぽつと気持ちを話す。
「帰還の壺」というネーミングから、私はてっきり、裕也が元の姿のまま帰ってくるものだと思っていた。久根の言う通り、壺の中でしばらく過ごさなくてはいけないだけで。
しかし、裕也がいたのは事実だ。それがたとえ口だけだったとしても。
言葉を選びながらなんとか戸惑いの気持ちを伝えると、久根ははあ、とため息を吐いた。
怒ってしまったのか、呆れているのか――とにかく、ネガティブな雰囲気を感じる。私は慌てて言葉を続ける。
「久根さんを疑ったり、責めたりしているわけでは」
「怒っても呆れてもいません」
久根はきっぱりと言って、視線を虚空に泳がせた。
「ただ、考えているだけです。私の話が理解できないのか、それとも一年記憶が持たないのか」
私が口を挟む前に、
「そのいち、壺に肉、塩、水を入れる。そのに、七歳まで待つ。そのさん、それまでは絶対に壺から出さないこと。三つだけです」
久根は私の顔を正面から見つめた。叫び声を上げそうになる。こんなに美しい瞳なのに、じっくり見ると発狂してしまいそうだった。恐ろしいほどの不安感で心臓がばくばくと脈打った。
久根の口から尖った犬歯が覗く。
「そんなにすぐに、人間ができるわけ、ないでしょう?」
一年前とまったく同じように、彼は噛んで含めるように私に言った。
「人間はね、父に似せた姿として、六日目に作られた。分かりますか?」
この言葉もまた、同じだ。私が分かりますと言うしかない、意味不明な言葉。
一つだけ分かることがあるとすれば、裕也は帰ってくるというより、作られている、ということだ。
「じゃあそれは、裕也じゃないかもしれないじゃない」
「青島さん」
久根の長い指が私の額に触れた。
「比喩です。ものの譬えです。それは分かりますか? 電車で大阪に行こうと、飛行機で大阪に行こうと、大阪に着いたことになりますよね。青島さんは飛行機で大阪に行った人に、地に足がついていないからあなたは大阪に着いたとは言えない、と言うのでしょうか」
「言いません……」
「ええ、同じことです」
久根はぱちん、と手を打って、
「そんなことより、裕也君と他に何をお話ししたのか聞かせてください」
「そんなことって……」
精一杯抗議の気持ちを込めたつもりだったが、ただ声が震えるだけだった。
「そんなことは、そんなことです。裕也君が帰ってくれば良いのでは?」
久根の質問は、私の答えなど求めていない。
「口ができたのだから、お話はできるはずですよ。尤も、私には小さいヒトが何を話すのかは分かりませんが」
「いいえ、話は……裕也、って呼ぶと、ママ、って言いますけど」
「そうですか。どんどんお話ししてあげると良いでしょう。裕也君も嬉しいはずです」
久根は目尻を下げて、またご報告くださいね、と言った。
***
壺が最初にバタンと鳴ったのが、十年前とか二十年前とか、随分昔のことのように感じる。
でも、実際はそんなに経っていない。相変わらず私は、周囲の助けによってなんとか生きている。
頼り切り、という状態からは抜け出せたと思う。塾の受付はやめて、今は会計事務所で働いている。週に三回しか働いていないが、夫にばかり家計の負担をかけている状況ではないだけで、私は満足だった。
数か月に一回くらいの頻度で通院もしている。不眠も疲れも幻聴も妄想もないし、薬も必要としていないし、私としてはもう行かなくていいかな、と思っているのだが、精神疾患に「寛解」はあれど「完治」は難しいらしい。
裕也は最近、ますます可愛さを増している。
口ができたばかりのときは歌を歌って、ママと呼ぶ程度のことしかなかったが、久根のアドバイスに従ってたくさん話しかけてみたら、裕也はもっとたくさんのことを話すようになった。
「まぁま、そぇ、なぁに」
目ができてくると、裕也は視界に入るものを目で追って、そんなふうに聞いてくる。私はいろいろ手に取って、裕也に見せてみることにした。予想通り、裕也の語彙は目を見張るようなスピードで増えていった。普通の子供も二、三歳くらいになると急激に喋りが滑らかになる。裕也もそうだった。いや、だった、ではない。今、そうだ。そのことが、裕也の実在を証明しているような気がして、とても嬉しかった。裕也は普通の子供だ。ただ、壺の中にいるだけで。
一つだけ不満があるとすれば、裕也の見た目だった。
壺に入っている水が濁っていて、底の方はよく見えない。だから体がどの程度出来上がっているのかは分からない。見えるのは顔面だけだ。
口が発生してから一年くらいして鼻、そして目の一部が発生した。皮膚に覆われているから、組織や血管が露出したグロテスクな見た目というわけではないが、暗闇に顔のパーツだけが浮かび上がっている様子はなんだか寂しい。
夫もそれに関しては少し思うところがあるようで、もう少し表情が分かればいいのにね、と言った。
「久根さん、裕也って、食事はできるんでしょうか」
「できますよ」
久根は例の甘い飲み物を木製のマグカップに注ぎながらそう言った。
「口でできることは全てできますね」
「それで、なんですけど」
久根の後ろ姿に向かって、
「食べ物とか飲み物をあげたら、その……いいのかなって」
ううん、と溜息が聞こえた。
久根が振り向く。
またあの瞳に射竦められる。なんでも頷く人形のようになってしまう。それを予感してどうしても体が強張る。
予想に反して久根は、ただマグカップを机に置き、腰かけただけだった。壺の話以外の雑談をするときの、普通の男性に見える久根だ。
「問題はありませんが、必要もありませんね」
「でも、普通の子は、食べたり、飲んだりして、体を作るから」
「普通の子」
わざわざ言葉を繰り返されて、なんだか馬鹿にされているような気持ちになる。裕也は普通の子供だ。壺に入っているだけで。
「普通の子でしょう、裕也は」
「私には何を『普通』とするのかよく分かりませんが、裕也君はすでに在るものだから、青島さんが何かすることによって変わることはないと言っているのです」
久根はやはり、私の反応や何を考えているかなどには全く興味がないようだった。
このやり取りをした日以来、カウンセリングには行っていない。
聞いたことに対して答えてくれないのだから、話しても仕方がない。彼はただ、ルールを守れと言うだけだ。ルールのことはもう分かっている。
久根は「必要がない」とは言ったが、「やってはいけない」とは言わなかったから、裕也にものを食べさせることはルール違反にはならないのだろう。
そう思って、私は一日一食、裕也に食べ物を与えるようになった。もちろん、夫と相談して、食事の内容は決めている。幸いなことにアレルギーなどはないようで、少し青臭い野菜以外はなんでもよく食べた。
効果は覿面だった。
食べ物を与えるようになってから、裕也は目に見えて成長した。見た目の変化は劇的で、すぐに顔面が完成し、髪の毛が生え、壺の中で手足を動かすようになった。ちらりと見える小さな指が愛おしい。
見た目だけではなく、中身もだ。
あっという間にひらがなとカタカナを覚え、今ではアルファベットも読める。
もう舌足らずなところはない。複雑な会話もできる。たまに冗談を言って私を笑わせたりもする。
私に口答えをするまでになった裕也を見ると、「こぇなに?」「あぇなに?」を懐かしく思う時もある。でも、そんなものは刹那的で、裕也の成長は嬉しいに決まっている。
「裕也のランドセルどうする?」
夫に聞くと、夫はスマートフォンの画面を見せてきた。
「今は結構、ネットで安く買えるみたいだよ」
「ほんとは、売り場に行きたいけど……裕也は、何色がいい?」
壺に向かって声をかけると、ややあってから、赤、と返ってくる。
「赤ねえ。私の頃は、女の子の色って印象だったけど、やっぱり時代は変わるね」
「よく考えたら戦隊ヒーローのリーダーのイメージカラーってだいたい赤だし、男の子が好きでも全然不思議はないよね」
裕也の今の見た目は、小学生くらいに見える。ふくふくとしていた頬も心なしか丸みが取れ、はっきりと性別が分かる顔つきだ。私がこうなるだろう、と考えていた中性的な美少年ではないけれど、さっぱりとしていて整った顔立ち。きっと、学校に通うようになったら、人気者になるだろう。
季節がまた巡って、冬になった。
町中に、相も変わらずお気楽なクリスマスソングが流れている。でももう、それに苛つくことはない。
病院へ行って、鏑木と二、三言交わす。鏑木もここ数年で少しマシになった。目を見て話すようになったし、馬鹿にしたような態度も取らない。今日なんて、帰り際に「メリークリスマス」と言うから驚いた。私もメリークリスマス、と返すと、鏑木は不器用な笑みを浮かべて手を振った。
病院が午前中で終わると、なんだか時間を有意義に使ったような気分になる。キッチンの時計を見るとまだ一時にもなっていない。夫が帰るまでにはまだたくさん時間があるし、料理の仕込みがゆっくりできそうだ。
買ってきた豚の肩肉にハーブを揉みこんでいると、がたがたと音がする。
「もう、裕也。バタバタしない。ちゃんと呼べばいいでしょ」
「お母さん」
「ママって言わないのね」
「ママなんて赤ちゃんみたいなこと言わないよ。もうオレ、七歳なんだし」
ひゅう、と喉が鳴った。
七歳。
「裕也」
声が震える。
「なんだよ、お母さん」
「いま、何歳、なの」
「七歳だって。誕生日、忘れたの?」
心臓が口から飛び出そうだった。声どころか、全身が震える。
やっとその時が来たのだ。
やはり、私のやったことは正しかった。
この壺は「帰還の壺」という名前だが、それは名ばかりで、久根の発言を咀嚼すれば、帰ってくるというより、人間の体を作っている、ということが分かる。人間の体を作る――つまり、成長させるためには、栄養が必要だ。水も、食べ物も、当然必要なのだ。
久根は何もしなくても大丈夫だと言った。久根の言っていることは意味不明なことも多いが、彼が噓を吐いたことはない。実際、何もしなくても、裕也は七歳になったのだろう。
でも、食事と水を与え、色々なものを見せて、家族で会話もして。そしたら、こんなにすぐに大きくなった。
絶対に七歳だ。だって、裕也は、もう私にべったりではない。憎まれ口をたたいたり、反抗したりする。本に書いてあった。二歳頃の第一次反抗期と、思春期の第二次反抗期の間に、七歳くらいで理由なく親に反抗する時期があると。「中間反抗期」と呼ぶらしい。
七歳だ。
壺から出せる。
今すぐ町へ飛び出して、大声で叫んで、踊りだしたいくらいだ。細胞という細胞が戦慄いている。
裕也をこの手で抱ける。
思い出すのは冷たくて小さい裕也だ。今まで忘れていた、すっかり記憶から消し飛ばしていた、あまりにも辛い記憶。
子供用の、ミカン箱みたいに小さな棺に納まる裕也。
そんなもの裕也ではない。違う。
本当の裕也は、温かくて、ポテトスープみたいな匂いがして、柔らかい。
「お母さん、どうしたの? お腹すいたよ」
裕也が私を見上げている。可哀想に、壺の中にいるから、裕也はいつも上を向いている。
今出してあげる、と口に出しそうになって、すんでのところで思い止まる。私の良くない癖だ。また、自分のことしか考えていない。
裕也が帰って来られたのは、夫のおかげだ。夫が私の言うことを信じて、協力してくれたからだ。
夫は久根と会ったことはない。それなのに夫は、私の言うことを信じてくれた。
壺に入った裕也と一緒に食事をとり、話しかけたり、本を読み聞かせたりしてくれた。私を見捨てないでくれた。私と裕也のために、働いてくれた。
事故の時も、いや、いつだって、夫は、私が悲しまないように、私を辛い目に遭わせないように、努力してくれていたのだ。
夫だって、裕也が帰ってきたところを見たいに決まっている。その瞬間を独り占めするのは、夫に対してあまりにも不誠実だ。
「お父さん来るまで待とうか。私、たくさんご馳走作るからね」
ええー、お腹すいたよ、とぐずる裕也の口に、ハムを一切れ放り込んでから、私はオーブンのスイッチを入れた。
裕也はハムを二、三切れと、チョコレートを二粒食べた後、何も話さなくなった。恐らく血糖値が上がって、眠ってしまったのだろう。
一通り拵えて、洗い物を終えると、携帯電話が振動した。
『いま駅。欲しいものがあったら電話してね』
夫からのメッセージだ。駅からはゆっくり歩いても十分くらいだから、いつチャイムが鳴ってもおかしくない。
テーブルにはアボカドサラダ、ハーブポテト、サバとトマトのピザ、アンチョビのスパゲティ――自分でもよくこんなに作ったなあ、と思えるくらいの品数の料理が並んでいる。一番の目玉は一流ホテルのレシピを参考にして作ったローストポークだ。こんがりと良い焼き色がついていて、お肉の美味しそうな香りがする。
かなり雑な仕上がりだが、リボンと色紙でなんとなくテーブルを飾り付けてみた。浮かれすぎだろうか。でも、これくらいしてもいいはずだ。今日はこの子の誕生日なのだから。
壺を玄関まで引き摺っていく。裕也はいま、何㎏あるのだろうか。七歳の子供の平均体重はどれくらいなのだろう。壺のぶんを差し引いてもかなり重そうだ。でも、今の私にとって、重さなんて屁でもない。
ちょうど靴箱の横に壺を設置したとき、ポーンとチャイムが鳴った。インターフォンまで走って行って、エントランスのロックを開ける。
顔が熱い。心臓がうるさい。
部屋中の電気を消す。
ピンポンと、玄関のチャイムが鳴った。鍵を開ける。
夫がただいま、と言うか言わないかのうちに私は明かりをつけ、壺から裕也を抱き上げた。
***
ゴエッとカエルの鳴くような音がした。すぐには何の音だか分からなかった。
地面から酸っぱい臭いが上がってきて、それでやっと、目の前で夫が吐いていることが分かる。
これじゃあローストポークの香りが台無しだ。臭い。せっかくの、お祝いなのに。酸っぱいだけではなく、腐ったような、ひどい臭い。一体何を食べて、それを戻したらこんな臭いになるのだろう。
大丈夫、と声をかける前に、夫が大きな音を立ててドアを開け放った。
「何やってるんだよ!」
夫の目は充血して、涙を流している。
「いますぐ、それ、閉じろよ!」
さっきまでの高揚感が急速に萎んでいく。私の目にも涙が溜まっていく。
夫が私に強い口調で怒鳴るなんて、そんなことは今まで一回もなかった。私が後ろを見ないで車のドアを閉め、夫の指が挟まって骨折させてしまったときも、大丈夫だよ、と涙目で笑っていた。
「あなた、一体どうしたの」
「それはこっちのセリフだよ!」
夫は私を突き飛ばすように押しのけて、換気扇のスイッチを最大にした。
「それを早く閉じろって言ってるだろ!」
それ、が壺のことだと気付く。そして絶望的な気持ちになる。
「どうして喜んでくれないの」
喜ばないなんておかしい。
二人で裕也に沢山言葉を教えた。
どんなに疲れていても、子供特有のしつこい繰り返しのロールプレイや、なんで、なんでという絶え間ない質問にも、全部答えてあげていた。あんなに楽しそうだったのに、楽しかったのに、どうして。
「裕也が戻ってきたのに、嬉しくないの?」
「……ずっと、我慢してたけど……」
夫の口の周りに、ネギみたいな固形物がこびりついている。ひどい臭いで、鼻がひくついた。
「君はおかしいよ。完全に異常だ」
「どうしてそんなことっ」
思わず夫に手を上げた。手を離してしまったから、ぼちゃん、と音がして、裕也がまた壺の中に戻る。
私の右手は夫の肩にあたって、弱々しく跳ね返った。自分の非力さが忌々しくて、何度も手をぶつける。何度も、何度も――何度目かで、夫が私の手首を強く握った。
「ごめんね、桜子さん。話を合わせたりしなければよかった。僕がもっと早く言えばよかったんだ。君は全然治っていない。治るどころか、ひどくなってる。おかしいよ。君はおかしい」
「おかしくないわよ! 薬だって」
「鏑木先生から全部聞いてるよ。君は仕事が好きだったから、少しずつでも働けば、病状が改善することも考えられる、ということになって――でも、変わらなかった。君はずっと、妄想のような話を繰り返すだけだった」
「妄想じゃないよ」
涙と鼻水が溢れる。どうして、急に、そればかりが頭に浮かぶ。
もしかして、浮気している? 別に好きな女の人がいるから、私がおかしいことにして、別れようとしている?
私は夫にずっと支えられて生きてきた。反対に、夫を支えていたとは言い難い。だから、浮気をされても仕方がないかもしれない。でも、だからと言って、こんな残酷なことをしないでほしい。
「久根先生と話せば分かるよ。妄想じゃない、本当のことだって」
私はとうとう、あれほど不気味だと感じていた久根に――彼の醸し出す威圧感に頼ってしまう。久根に夫を説得してほしい。そうすれば、夫だって、こんな風には言わないはずだ。言えないはずだ。
夫はうぅ、と呻いて、ぼろぼろと涙を流した。コートの袖で乱暴に目を拭って、深呼吸をしている。
何度もすう、はあ、と繰り返した後、私に向き直って、
「久根先生って、誰なんだ?」
「は……」
夫の目から流れた涙が、カーペットにシミを作っている。
「鏑木先生に、そんなカウンセラーはウチにはいないって言われた。桜子さんの担当カウンセラーは白倉先生っていう方で……名前を、勘違いしているのかもしれないとも考えた。でも、そもそも、鏑木先生のところのカウンセラーは、全員、女性だって」
「意味が分かんない」
「桜子さん、ちゃんと話そうよ……誰なの、久根先生っていうのは。妄想なら妄想で構わないけど……」
「妄想じゃない! 黙ってよ!」
高くて、すこし段になった鼻筋。やや女性的とも言えるほっそりした顎。いつも上向きに弧を描いた唇。笑うと獣のような犬歯が覗く。そして何より、星のような瞳。
これが私の妄想なわけはない。
それに、何より、
「久根先生がいたから、裕也、帰って来られたんだよ……?」
もう、全てを証明するのは裕也の存在しかなかった。
私はもう一度壺の中に手を入れ、裕也を持ち上げた。
「じゃあ、この裕也は何なの?」
「桜子さん……」
夫はそう言ってまた、下を向いた。吐き気を堪えるような動作をして、鼻の詰まった声で、
「桜子さんにはそれが、裕也に見えてるの?」
夫が化け物でも見るみたいな目で指をさしている。ひどい。おかしいのは私ではなく夫の方だ。私だけならまだしも、裕也まで。
夫に押し付けてやろうとして、またカエルが鳴くような音がする。
ゴエェッゴエッ。汚い音。嘔吐の臭気。
なんで吐くの、と抗議しようとして、自分の口が酸っぱいもので汚されているのに気付く。
ぐちゃぐちゃとした、粘性の感触。手に力を籠めても、垂れ落ちてしまう。
私が、手に、持っているのは。
それが裕也に見えるのか。
見えない。私が手に持っているのは、緑色に変色して、凄まじい臭気を放つ肉塊だ。
聞いたこともない、醜い悲鳴が私の口から漏れる。
助けて、と叫んだ。誰か――助けてくれる人なんていないのに、助けて、と叫ぶ。
私のことを抱きしめようと手を伸ばしてきた夫を突き飛ばす。そのまま、外に出た。
汚い悲鳴を上げているのに脳はどこか冷静で、私の足は意思を持って前へ進んでいる。
久根だ。
久根ニコライがすべて、すべて、すべて。
どういう手を使ったのか分からない。でも私を騙した。
「殺してやる」
殺してやる。
純粋な殺意を持ったのは二度目だった。あの、忌々しい、裕也を殺した女を絶対に殺すと思った。でも、あの時よりずっと、絶対に許せない。殺してやる。
私を、騙して、
「騙していないでしょう」
暗闇に光る二つの点がある。目が眩む。潰れてしまいそうだ。目を閉じると、膝が震える。全身の力が抜けて、立てなくなる。
ゆっくりと近付いてくるのが分かる。足音が目の前で止まる。
顔を上げると、久根が跪く私を見下ろしていた。
「だ、ま、騙した、騙したじゃないか」
道路は氷のように冷たくなっている。顎が痙攣して、うまく言葉が出てこない。
「わた、しは、信じてたのに。ルール、を、守ったのに」
「守っていない」
地面よりもっと冷たい手が、私の頬に触れ、熱を奪っていく。
「騙されたのは私の方です。あなたはルールを守らなかった」
「ま、まも、守った」
「そのいち、壺に肉、塩、水を入れる。そのに、七歳まで待つ。そのさん、それまでは絶対に壺から出さないこと。三つだけのことを、あなたは、最初の一つしか守らなかった」
体が芯まで冷える。どこまでも冷たい声が私の耳を刺した。
「七歳って、裕也が、七歳って言った」
「愚かな女だ」
久根は皮手袋に覆われた指をすっと立てた。左手が四本、右手が三本。
「裕也君は三歳だった。七歳になるまでに四年かかる。まだ二年しか経っていない」
「裕也が、七歳って言った」
「七歳になるには七年かかるでしょう。こんなことも分からないのか」
私は何度も繰り返す。裕也が七歳だと言ったと。実際に、七歳だった。少しかっこつけたような喋り方と、中間反抗期のこと。裕也は七歳だったのだ。私は、愚かではない。裕也を信じることは愚かではない。裕也は七歳だった。
「あなたは何度も無意味な言葉を繰り返す。ヒトが肉で作られると言ったとき、あなたは非常な拒否感を示した。しかしどうですか。私の言うことは正しかった。私の言葉は父の言葉です。あなたはルールを守らなかった。地獄から来た土くれの生き物よりも愚かだ。良い豚を捧げなかった」
頭が割れそうに痛い。
久根の言葉は一つも分からない。それでも、久根が正しいことだけは分かる。
私はルールを破った。久根は正しい。善人に与えられるのが褒美だとすれば、ルールを破った私に与えられるのは――
「桜子さん!」
背後から声が聞こえて振り向く。
夫が嘔吐物で汚れたコートのまま、息を切らせて立っていた。
「忘れないでくださいね。あなたが忘れても私は忘れない。あなたはルールを守らなかった」
耳に響く。突き刺さるような寒さで脳が凍える。
***
「桜ちゃーん、ちょっといいかしらぁ」
私を呼びつける義母の声に、はぁいと返事をして、ソファから立ち上がる。
少し速足で事務所に向かうと、義母の後ろに義父が仁王立ちしていた。
「まったく、なんでもすぐ桜子さんを頼って。これくらい一人でもできるだろう」
「だってえ、桜ちゃんに聞いた方が早いんだもの。おしゃべりも楽しいし」
「だってじゃない。桜子さんも甘やかさなくていいんですよ」
あきれ顔でそう言う義父に、私は笑って見せる。
「いいんですよお義父さん。実際、お義母さんとおしゃべりするの、楽しいし、私にもできることがあるんだなって思えて、嬉しいです」
義母がほらね、あなたは黙ってて、と得意げに言い、誰からともなく笑い声を漏らす。
どこまでも和やかで、安心できる空間がここにはある。
あのあと、私は、夫と一緒に東京を去る選択をした。
「桜子さんがおかしくなったのは、桜子さんが悪いんじゃないよ」
そう宥められて、私は心底申し訳なくて、死んでしまいたくなった。土下座して離婚してください、と自分から言った。こんなに良い人に暴力を振るい、浮気まで疑った自分は死んでしまえばいいと、今でも思っている。
それでも彼は、離婚は絶対にしない、と言った。
「でも、僕から一つだけお願いがあります。僕と一緒に地元に戻ってくれないかな。少し前から言おうと思っていたんだけど、良い機会だから。妹夫婦が手伝ってくれてるけど、やっぱり親としては僕にやってほしい、っていうのがあるみたいで……同居が嫌なら、近くに家を借りるし、桜子さんは交流とかもしなくていいから」
夫の家族たちの顔を思い浮かべる。義両親は何かと世話を焼いてくれたし、それでいてずかずかと無神経に踏み入ってくるような真似はしなかった。義妹の奏ちゃんは裕也の事故の時、自分だって子供がいて大変なのに、ずっと寄り添ってくれていた。
あんな良い人たちの中に入ることを断るはずがない。
「あなたは……あなたのご家族は、それでいいの?」
夫は笑顔で、
「もちろん。っていうか、こっちがお願いしているんだから」
結婚してからずっと住んでいた家だから、少しだけ寂しくはあった。でも、この家に留まっていると、どんどんおかしくなってしまうという確信もあった。
夫の実家は建築板金業を営んでいて、家族でそれを手伝っている。
精神的にも肉体的にも脆弱な私にできることはないと思い込んでいたが、昔取った杵柄で経理の仕事を任せてもらえるようになった。
「行ってきまーす!」
元気に手を振る甥の宗助くんに行ってらっしゃい、と返す。
宗助くんは現在小学二年生で、生意気なところはあるものの、基本的には優しくていい子だ。私の誕生日に花束をプレゼントしてくれた時は、嬉しくて泣いてしまった。
裕也のことを忘れたわけではない。でももう、私は裕也が生きているだとか、帰ってくるだとか、そんな妄想をすることはない。裕也はもういない。どこにもいない。
宗助くんの笑顔が、裕也の――七歳の裕也の顔に似ていると思う時もある。でも、七歳の裕也なんて、あり得ないのだ。あれは私の妄想で、裕也は三歳のまま、年を取らない。
「ナイフを取ってきてくれる? お客様から美味しいバウムクーヘンを戴いたの」
一緒に食べましょう、と笑顔で言う義母に軽く頭を下げて、キッチンへ行き、一番よく切れるナイフを取った。落とさないように両手で持って、また事務所に戻る。
私は幸せだ、嘘のように。
「こんなところにいらっしゃったのですね」
外廊下の、窓の外。彼、の立っているところだけ、日が差していない。
彼、が宗助くんの肩に手をかけている。宗助くんは笑っている。
「青島さん、子供ですよ。あなたが手に入れられなかった、子供ですよ」
彼、の口は動いていない。それでも、脳に言葉が届く。
宗助くんの顔。幸せそうで、何の疑いもなく、誰もが自分を愛していると思い込んでいる。
「そうだよね、どうして私だけ、我慢しなくては、いけないのかと。こんな生活、嘘だよね、誤魔化しだよね」
私の口から言葉が漏れている。裕也。裕也は死んだのに、どうして、子供が。
ガラス戸を引いて、裸足のまま外に出る。
「おばちゃん……?」
宗助くんが彼、と話すのをやめ、私の方に顔を向ける。不安そうな声、でもまだ笑顔でいられるんだね、あなたは。生きているものね。
「青島さん」
二つの瞳が光っている。私を見ている。私は、
(了)
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※この記事は、連載時の原稿を再掲載したものです。単行本の内容とは一部異なる場合があります。
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