最悪な出会いから始まった、同棲中カップルの恋愛の本音とは。尾崎世界観×千早茜の大ヒット共作小説『犬も食わない』(新潮文庫)特別試し読み ①「家弁当」

クリープハイプ「痛々しいラヴ」×千早茜 特集

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ベッドの半分を占める体は邪魔だし、同じシャンプーが香る頭は寝癖だらけ―。

「ラップのMCバトルを小説でやりたい」という尾崎さんのアイディアから生まれた『犬も食わない』は、喧嘩ばかりの同棲カップルの本音を、尾崎世界観さんが男性視点、千早茜さんが女性視点で交互に描く共作小説です。

単行本の刊行後、全国書店で続々1位獲得&大重版を果たしたこの大ヒット連作短編集から、同棲中の大輔と福の“風邪をひいた日”を綴った〈第三回 「家弁当」(千早茜 著)・「体温計」(尾崎世界観 著)〉を特別公開。

まずは千早茜さんが描く女性・福視点でお楽しみください。

※尾崎世界観さんが描く男性・大輔視点「体温計」は7月1日(水)16:00公開予定です。

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家弁当 千早茜

犬も食わない

犬も食わない

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 息苦しさで目が覚めた。
 部屋はまだ暗い。隣からは重低音のような鼾が聞こえてくる。肉体労働のせいか、鼻が悪いのか、大輔は若いくせに鼾がひどい。おまけに一度眠りはじめると、ちょっとやそっとでは起きない。でも、肩の辺りを軽く叩けば、たいてい鼾は止まる。
 手を伸ばそうとして、自分の腕の重さに驚く。そこでやっと息苦しさというよりは重苦しさで目が覚めたのだと気づいた。体中が水を吸ったような倦怠感に満ちている。寝ようと目をつぶるが、大輔の鼾が振動となって伝わってきて眠れない。ますます体が重くなってきて、喉や関節が熱く痛みだしてきた。
 まずい。この感じはあれだ。
 単語にしてしまうと逃れようがなくなる気がして無理に起きあがる。ほぼ同時に、キッチンから炊飯器の炊きあがりを報せる能天気な音楽が流れてきた。大輔の鼾が一瞬止まり、寝返りをうつ。こちらに向けられた背中がぴくりとも動かないのを確認してから、そっとベッドをでた。いつの間にか、目が暗さに慣れている。外から新聞配達のバイクの音が聞こえた。
 裸足で洗面所に入る。いつもは冷たく感じる床がひんやりと心地好かった。口のなかが熱くて粘っこい。うがいをすると背筋がぞくっとした。鏡に映ったぼさぼさ髪の女は腫れぼったい顔をして酔ったように目を潤ませている。一週間前の大輔もこんな顔をしていた。
 油断した。今頃になって伝染るなんて思わなかった。
 あたしは病気で仕事を休んだことがない。自己管理のできない秘書なんてまず信用されないから。冬場は加湿やビタミン摂取を心がけ、気をつけていたつもりだった。
 一週間前、大輔は「なんか熱っぽいんだけど体温計ある?」と、真夜中にあたしを起こした。低くはない熱があり、そのまま大輔は二日間あたしのベッドを占領した。ピピと儚い音をたてた体温計を素早く脇からひっこぬいたとき、大輔がかすかににやりとしたのをあたしは見逃さなかった。きっと風邪をひいても自己管理能力を問われない、だらしない職場なのだろう。実家かビジネスホテルにでも行っててもらえばよかった、と今になって後悔する。
 いや、まだ決まったわけじゃない。
 とりあえず気のせいということにして、冷たい水で顔を洗い、化粧水をはたきつける。玄関横のキッチンスペースに立って、流しの上の蛍光灯だけを点ける。炊飯器のプラグを抜いて、冷蔵庫から食材をだす。昨日の晩御飯の残りの挽肉と茄子の炒めものとポテトサラダ、あとはソーセージの袋と卵を二個。ソーセージはフライパンで焼く。卵焼きを作るのが億劫だったので、卵は茹でて殻を剝き半分に切る。それらをご飯と共にタッパーに詰めていく。自分のタッパーにはご飯の代わりに前日の晩に茹でておいたブロッコリーと人参を入れる。
 住んでいたアパートの更新時期だかで、大輔があたしの部屋に転がり込んできて二ヶ月、なんとなくお弁当を作ってあげるようになった。最初は自分用だった。秘書をやっていると接待などで外食が続くこともあり、ダイエットのために炭水化物抜きのお弁当をはじめたついでに大輔の分も作ったら、黙って持っていくようになった。空のタッパーが当たり前のように流しに置いてあると、面倒臭さの中に誰かと暮らしている確かな実感があった。とはいえ、作るのは前日の余りものがあるときだけだし、手の込んだこともしない。
 キッチンはほぼ廊下といってもいいような狭い空間だ。それなのに、ちょっと動いただけでもランニングしたように息が切れる。とにかく体が重い。腕も首も脚も腰も存在すべてが重いのに、頭の中はふわふわしてうまく考えられず、段取りが悪い。いつもは十五分ほどで作り終えてベッドに戻るのに、白米の上にふりかけをかけてタッパーの蓋を閉めたときには、大輔の起きる時間が近くなっていた。
 ふりかけをかける。ふりかけをふる? どっちも意味が重複している気がする。ふりかける? ふりかけする? そもそも、ふりかけってなんだろう。名詞なのか動詞なのかわからない。味とかなんでもよくて、ふってかけられるものならなんでもふりかけなのか。じゃあ、ココアパウダーとかシナモンシュガーとかもふりかけか。
 しんどいときほど、どうでもいいことを考えてしまう。なんなんだ、あたしは。
 いや、どうでもいいことを考えてまぎらわせようとしてる。
 もう駄目だ、認めよう。変だ。おかしい。具合が、ものすごく悪い。
 ふらふらと薄暗い部屋に戻り、薬をしまっているプラスチックの箱を開ける。あるはずの場所に体温計がない。ペン立てにも、耳かきや爪磨きをしまっている場所にもない。確か洗面所にもなかったはずだ。探し物をしているうちに、身を起こしているのさえつらくなってきた。
 ベッドに身を投げだす。あたしの下敷きになった大輔が不機嫌そうな呻き声をあげた。謝罪も朝の挨拶もする気力がなかったので、突っ伏したまま「どこ」と訊く。
「は?」
「体温計。最後に使ったのあんたでしょ、どこやったの?」
 寝ぼけているのか反応が悪い。大輔はあくびをしながら寝癖だらけの頭を搔いて起きあがった。なにもない天井を見あげて首をまわし、「熱あんの?」とまたあくびをした。
 それを調べたくて体温計を探しているんだけど。
 けだるくて言い返す気にもなれない。あたしが黙っていると、大輔は電気をつけて部屋のあちこちを探しはじめた。人のたてる物音が頭の奥に響く。視界がゆがんできて目をとじると、体がゆらゆらと流されていくような心地になった。
 頰になにかが触れて意識がひっぱり戻される。荒れた質感と武骨な触り方で大輔の手だとわかる。でも、人の肌は気持ちがいい。自分とは違う温度が浸み込んでくる。
 手を握ろうとすると、「ほら、体温計」と声が降ってきた。手が逃げるようにすっと離れる。目をあけると、エアコンやテレビのリモコンを入れておく籠が目の前にあった。籠を持った大輔があたしを見下ろしている。
「あった」と、体温計を手渡してくる。あったって、そんな変なところに入れたのおまえだろ、なんでいつも元あった場所に戻すっていう簡単なことができないんだよ。うんざりしながら体温計を脇に挟む。
 大輔はなにも言わずに洗面所に向かった。勢いのある水音に混じって、うがいと痰を吐く音が聞こえてきて顔をしかめてしまう。愛情があろうがなかろうが不快なものはある。
 体温計が鳴った。三十八度二分。
 体から力が抜ける。これは、駄目だ。
 作業着姿になった大輔が部屋を覗き込んだ。
「熱は」
「あった。休む」
「わかった」と大輔は短く答え、「なんかあったら連絡して。じゃあ、いくわ」と背を向けた。口調が急いている。体温計を探していて時間がなくなったのだろう。でも、あたしのせいじゃない。
「いってらっしゃい」
 言い終わらないうちにドアが閉まった。ふつ、となにかが途切れたように部屋が静かになる。カーテンの縁がうっすらと青みがかってはいるが、まだ六時過ぎだ。会社に連絡しようにも誰も来ていない。
 眠ってしまったら起きられなくなる気がしたのでテレビをつけた。今日の天気だのニュースだの各地の様子だのが流れたが、画面をただ見つめているだけでなにも頭に入ってこなかった。
 朦朧としながら七時半になるのを待ち、秘書課に電話をした。三コール目で、いつも誰よりも早く出勤する朝比奈さんの声がはきはきと社名を告げた。この人、五十過ぎなのにどうして朝からこんなに元気なんだろう、更年期とかないのだろうか。またどうでもいいことを考えながら、熱があって休ませてもらいたい旨を伝える。
「わかりました。二条さん、連絡事項はある?」
 朝比奈さんの簡潔な返事に、必要以上に弱々しい声をだしていた自分が恥ずかしくなる。慌てて手帳をひらき、今日の佐伯さんのスケジュールを読みあげ、用意しておくべき資料をお願いする。自分の代わりに誰かが佐伯さんの補佐をすると思うと心が曇った。やっぱりいまから行きます、と言いたくなる。
「それで」と朝比奈さんが言った。反射的に「はい!」と声をあげてしまう。
「インフルエンザの可能性はあるの?」
「たぶん大丈夫かと…」
「たぶんってどういうこと?」
「同居人も先週同じ症状だったので…でも、もう元気です」
 朝比奈さんは一瞬黙った。しまった、と思う。同居人なんて言わなければよかった。案の定、「その同居人さんは」と急にねっとりした口調に変わる。
「インフルエンザではなかったのね」
 返事に窮する。病院に行きなよとしつこく言ってお金まで置いていったのに、大輔は頑として病院に行かなかった。結局、二日で熱も下がり、食欲も回復したので、市販薬を数日飲ませ、それで済ませてしまった。
「それも、たぶん? あのね、二条さん、たぶん、じゃ困るの。インフルエンザだったら、みんっなに迷惑がかかるでしょう」
 みんな、に思いきり力を込める。説教がはじまるときの傾向だ。やってしまった。もうこうなったら黙って聞くしかない。熱くなってきた携帯電話がべったりと頰に張りついて気持ち悪い。
「私たちならまだしも、ボスたちに伝染したら、我が社にとってどのくらいの損害になるかわかっている? まあ、あなたは派遣でいらっしゃってるから、そんなに関係ないと思っているのかもしれないけれど」
 ちくりと嫌味を混ぜてくる。
「それに、あなたは同居人さんだけと関わっているわけではないわよね。通勤途中、お店、訪問先、どこでウイルスをもらっているかわからないじゃない。素人判断で物事を安易に捉えるのは危険なことですからね。休むのが悪いと言っているわけではないの。でも、社会人としての自覚を持って、人に迷惑がかからない選択をしてちょうだい」
 はい、はい、申し訳ありません、とくり返す。病院に行ってまた連絡します、と伝えると、朝比奈さんはやっと「それでいいのよ」と解放してくれた。余計なことを言わず最初からそう言えばよかった。ぐったりとベッドに倒れ込む。
 立ちあがるのさえつらいのに病院に行かなきゃいけないなんて。大輔がちゃんとインフルエンザの検査をしてくれなかったからだ。ていうか、あいつ、体調を気遣う一言もなかった。おまけにお局に説教までされて。腹がたってきて、大輔の枕を拳で殴ると、埃がたってむせた。こんなにしんどいのにどうして優しくしてもらえないんだろう。
 惨めな気分になってきたので、のろのろと立ちあがり、なるべく厚着をしてタクシーを呼んだ。マスクは忘れずつけて行った。