最悪な出会いから始まった、同棲中カップルの恋愛の本音とは。尾崎世界観×千早茜の大ヒット共作小説『犬も食わない』(新潮文庫)特別試し読み ②「体温計」
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ベッドの半分を占める体は邪魔だし、同じシャンプーが香る頭は寝癖だらけ――。
「ラップのMCバトルを小説でやりたい」という尾崎さんのアイディアから生まれた『犬も食わない』は、喧嘩ばかりの同棲カップルの本音を、尾崎世界観さんが男性視点、千早茜さんが女性視点で交互に描く共作小説です。
単行本の刊行後、全国書店で続々1位獲得&大重版を果たしたこの大ヒット連作短編集から、同棲中の大輔と福の“風邪をひいた日”を綴った〈第三回 「家弁当」(千早茜 著)・「体温計」(尾崎世界観 著)〉を特別公開。
千早茜さんが女性・福の視点で描いた「家弁当」に続き、尾崎世界観さんによる男性・大輔視点「体温計」をお楽しみください。
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体温計 尾崎世界観
薄目の先でつきとめた原因は予想通りだった。四つん這いになった福が、苛だたしげに棚を引っ搔き回している。フラフラと身体のどこにも軸が無い、いかにも「どうした? 何かあった?」待ちの状態で探し物をしている。「探しものは何ですか?」こんな時、井上陽水なら優しく聞いてあげるのだろう。
相変わらず、プラスチックの何かと何かがぶつかる乾いた音が、寝起きの頭に降ってくる。自分は、正確にはまだ起きていない。ここで起きてしまうと勿体ないと思い、きつく目をつむって眠りに帰ろうとする。でも、そうすることで余計に意識が冴えてしまい、そんなふうに考えることでまた意識が冴えてくる。
ここから先は起きていて、ここから手前は寝ているという線があるとすれば、今まさにその真上にいる。閉じたまぶたの裏側でも、さっきまでと変わらず福の残像がだらしなく手足を動かしている。苛だちからか次第に音は大きくなって、その音を聞いていると、探せば探すほど見つからないような気がするから不思議だ。もしも自分が探し物の立場なら、あんな音で見つけられるのは嫌だ。そんなことを考えているうちにどんどん目が覚めてきて、向こうから人がやってくる気配がした。予想通り、慣れ親しんだ体の重みがのしかかってきて、やけに熱い息を吐いた。
「何がないの?」
聞くと、福が探していたのは体温計だった。
「え、具合悪いの?」
返事も待たず、やっとの思いで体を起こして立ち上がる。記憶を手繰り寄せながら手足を動かしてみる。しばらく探しながら、結局は自分だって、あのプラスチックがぶつかりあう乾いた音を出していることに気が付いた。こんな音に見つけられるのは不本意だろう探し物、キャップの外れた体温計を指でつまんで福に渡した。
不機嫌な表情は体調のせいだけではなさそうで、何かを出すたび「使ったら元の場所に戻しといて」と、口酸っぱく言われてきたのを思い出した。女はいつだってそうだ。この家のどこかにあれば、それで良いじゃないか。この家のどこかにあるのなら、探せば出てくるんだから。でも、これを男女の関係に置き換えると大問題だ。何段目の引き出しのどこにしまった。常にそうやって管理されていたら、いつか確実に駄目になる。探せば家のどこかにあるという安心感と、でもそれが家のどこかはわからないという緊張感。そうやって、探したり見つけたりしていないと飽きてしまう。同じ場所に当たり前にある物に魅力を感じ続けるのは難しい。
当然洗濯もされておらず、脱ぎ捨てたままの作業着に袖を通したら、昨日の疲れが戻ってきたようで体が重たい。帰りに吸った煙草の臭いはちゃんと染みついていて、マフラーのように首にまとわりつく。
洗面所から戻って、深くうな垂れている福の後ろ姿に何か声をかけなければと思った。言葉はすぐに区切られ、優しさの欠片も無い、ましてや愛情にも程遠い、「熱は」という冷たい言葉が出た。
「どうだった? やっぱり熱はあった? 今日は無理せずに会社休んでゆっくりしてればいいんじゃない?」
この中のたった三文字しか言葉に出来ないのに、「熱は」だけでしっかり相手に伝わってしまうことが憎たらしい。せめて「熱は?」と語尾を上げて柔らかく包むことくらいしてやれないものか。福からも似たような素っ気ない返事が返ってきて、それも反射的に打ち返してしまう。
恥ずかしくて、居ても立っても居られなくなり、弁当を摑んで家を出た。微かに聞こえた福の声は、ドアが閉まる音でかき消されたけれど、その為に走ったのだから、それでいい。
ハンドルを握る指先から体の節々まで意識を集中させて、一週間前の痛みを思い出す。痒みにも似た疼きが関節に溜まって、起き上がるのにも決意が必要だった。それでも無理やり家を出て、会社へたどり着き、こうしてハンドルを握ったのだった。何かを握っていると気が紛れるのは今日も同じで、家に置いてきた福の残像を払うように右足を踏み込めば、加速に合わせて窓の外も忙しそうに流れた。
現場に着いてからも気持ちが晴れず、さっき体温計の液晶画面に映っていた自分の顔を思い出す。こうやって見つければいい。見失っても、その度に探してまた見つければいいのに。そう言いたげな顔をしていた。仮にもし伝染してしまったとして、一週間経ってから症状が出るだろうか。気になってiPhoneに打ち込めば、検索画面から膨大な情報が溢れる。一番上のサイトを開いて読み進めても、すぐにははっきりしない。~であるけれど~でもある。だから~だけには限らず~にもなる可能性があるので、日頃から万が一に備えておくことが大事だ。こんな調子で要領を得ない。そればかりか、間に挟み込まれているバナー広告をタップしてしまい、更に余計な情報が出てきて混乱する。
「高山さん、風邪って伝染されてから何日で症状出るんですかね?」
「えっ、知らないよ。伝染されたらすぐ出るんじゃないの。でも、テレビでやってたんだけど、体内にウイルスが入ったら自律神経っていうのが何とかしてくれるんだってさ」
「じゃあ、自律神経がなんとかしてくれなかったら、風邪ひくってことですか?」
「そう。たしか、自律神経出張症って言ってた。自律神経も忙しいんだろうな。忙しく飛びまわって色んな所いかなきゃいけないから。俺たちと一緒だな」
定年を過ぎ、嘱託として主にガラ出しと呼ばれる廃材や梱包材を運ぶ作業を受け持っている高山さんは、日に焼けた真っ黒な顔をしわくちゃにして、黄ばんだ歯を見せて笑った。
自律神経が出張するってどういうことだろう。体の神経関係にも色々あって、例えば自律神経である交感神経と副交感神経が夫婦で、出張続きの交感神経に副交感神経がこう詰め寄る。
「あなた、最近出張ばかりじゃない。少しはウイルスが入って来たときのことも考えてよ。あなたが居てくれないと……私だけで守れるわけないじゃない。そうだ……浮気してるんでしょ。そうに違いないわ。そうだ……相手は……体温ね……どうりで最近、寒くて仕方がないわけだわ」
どうでもいいことを考えて気をまぎらわせようとしたけれど、どうでもいいことを考えても、どうでもよくないことが浮き彫りになるだけだった。
いくつか小さい現場をこなしただけで、あっという間に昼休みになり、力を持て余して事務所に戻った。なんだか労働からも非難されているようで、勢いに任せて乱雑に弁当の包みを解く。すると、いつもと中身が違う。ゴツゴツした岩のような野菜が、暴力的な色彩を放ってゴロンとしている。子供の頃から野菜が嫌いで、その事でいつも窮屈な思いをしてきた。
給食で出た料理から人参、キャベツ、ピーマン、玉ねぎ等を器用に箸でつまんで避けていく技は、高学年になる頃には職人芸の域に達していて、先生ももう怒るのを忘れて「たいしたもんだな」と感心していた。箸でつまむこともできない程の大きな野菜が、弁当箱を埋め尽くしている。怒りにまかせ、半ばヤケ糞になって手摑みで齧ったけれど、息を止めるのは忘れなかった。歯と歯の間で飛び散るブロッコリーの断片を、舌の上に乗せたままどうすることもできず途方に暮れる。覚悟を決めて飲みくだしたら、異物感が食道で一本の線になって、立ちのぼってくる臭いにむせた。こんな物を食っていたら体の中が綺麗になってしまう。労働のど真ん中で、真っ昼間からこんな物を食う神経を疑う。これも職種に関係があるのだろうか。朝早くから顔や作業着、爪の間を真っ黒にしている自分だから、そう思うのだろうか。昼時になると無性に体に悪いものが食べたくなるのは、同じように体の内側も汚してしまおうとしているのかもしれない。
ウィンナーの先端でこそぎ落としたポテトサラダごと口に放り込み、弁当箱の蓋を閉めて立ち上がる。物足りなさを誤魔化すため、煙草に火をつけたところで、福からメールが届いた。そっけない文面を見て、今まで一度も病気で仕事を休んだ事がないと、憎しみを込めて威嚇するように言い放つあの横顔を思い出した。昔スポーツニュースで見た、連続試合出場記録が途切れた野球選手の、あの迷子のような表情。今頃、家で寝ている福もあんな顔をしているのだろうか。
午後も拍子抜けする程にあっさりとしていて、何度も休憩を挟んでは、時間を持て余した。スカスカの荷台をカタカタ鳴らしながら、日が傾き始めた街を走る。普段よりも早い時間のせいか、すぐに事務所に着いてしまった。
「暇だから今日はもうあがろ。飲み行く? もちろん割り勘で」
どうにも気乗りしないのは、相手が他弁だからという理由だけではない。首筋に、当たる福のあの熱い息を思い出して、また気が重くなる。その全てを投げつけるように他弁の背中を見据えた。
「割り勘ですか? タダでもキツイのに……」


