『君と漕ぐ ながとろ高校カヌー部』第1章 試し読み【6】

【試し読み】アニメ化決定!『君と漕ぐ ながとろ高校カヌー部』第1章

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イラスト/おとないちあき
イラスト/おとないちあき

 八時五十五分。デジタル時計の数字は、集合時刻の五分前を示している。寝ぼけ眼を袖口そでぐちで擦り、舞奈は大きく欠伸あくびをした。
「早いね」
 伸びる影を靴の先端で踏みつけていると、目前で一台の自転車が止まった。おもてを上げると、自転車に乗った姿勢のまま恵梨香がひらりと手を振った。頭に鎮座する黒いキャップは、初めて会った時にもかぶっていたものだった。
「どこ行くの?」
「面白いところ。ほら、早く自転車に乗って」
 促され、舞奈は素直に指示に従った。恵梨香の羽織るグレーのパーカーには、やや大きめのフードが首からぶら下がっていた。キャップがあるならフードなんていらないじゃん、と舞奈は心の中で独りちる。
「乗った? じゃ、出発ね」
 舞奈がペダルに足を掛けたのを確認し、恵梨香は颯爽さっそうと地面を蹴った。今日の彼女は機嫌が良いのか、鼻歌なんてものまで歌っている。ハイキングに行くには、今日の風は強すぎる。顔をしかめた舞奈に、恵梨香が前を向いたまま気取った口調で言う。
「風が語りかけます」
「なにそれ?」
「知らない? 『うまい、うますぎる』ってやつ。十万石まんじゅうのCM」
 物真似ものまねなのか、恵梨香はわざわざ渋い声を作っている。そのクオリティーの低さに、舞奈は思わず笑ってしまった。
「よくわかんないけど、絶対似てないでしょ」
「自分では似てると思うんだけどなぁ」
「似てないよ。恵梨香、自分で思ってるより声高いもん」
「そう?」
「うん。綺麗な声してる」
「初めて言われた」
 他愛のない会話が心地よい。頭を使わずに発する言葉たちは、なんの重みも含んでいない。甘さしか詰まってない綿菓子みたいな、くだらないやり取りが好きだった。楽しいという感情だけが、のどへと通じる管を震わす。振り返る恵梨香のはにかむような笑顔が、何故だか鮮烈に網膜へと焼き付いた。