こいごころ【5】

【試し読み】960万部突破!「しゃばけ」シリーズ最新作『こいごころ』

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イラスト/柴田ゆう
イラスト/柴田ゆう

 すると場久へ言葉を返したのは、師の老々丸ではなく、笹丸であった。
「われが弱ったので、師が、荼枳尼天様の庭へ行こうと、決めて下さったのです。けれどわれは、若だんなに無理をして欲しくはないんです」
 場久は小さく頷くと、一つ首を傾げ、老々丸へ問う。
「笹丸さんを、荼枳尼天様の庭へ連れて行きたい気持ちは分かるよ。けど妖狐なら、若だんなを巻き込まなくとも、何とかなった気もするが」
 確かに、若だんなの祖母おぎんは、神の庭にいる。だが庭の主はおぎんではなく、荼枳尼天なのだ。
 すると笹丸の狐の耳が、ぺたんと横に寝てしまった。そして笹丸は、寝ている若だんなへ目を向けてきた。
「その、われが若だんなといつか、また会いたいと、言ってたからだと思います」
 だから老々丸はきっと、江戸へ、また来る事を選んでくれたのだ。
「私と? けほっ、またって、前に会ったこと、あったかな?」
 若だんなが寝床内から問うと、笹丸は何度も頷いた。
「少し前の話なので、若だんなは、覚えてないかもしれないですけど」
 以前笹丸は、王子稲荷の狐に鍛えて貰うため、老々丸と江戸にいた事があった。すると師は、修行は大変だろうからと、二月の最初のうまの日、長崎屋にある稲荷神社の祭りへ、連れて行ってくれたのだ。初午はつうま祭りだそうで、長崎屋では稲荷寿司を配り、大道芸人まで呼ぶので、とても楽しいらしい。
「でも、店奥の庭へ行くと、人が一杯来てました。われは小さいから前に行けず、稲荷寿司は貰えないかと思ったんですが」
 すると、若だんなが小さな笹丸を抱き上げ、ちゃんと稲荷寿司や、団子までくれたのだ。老々丸の分もあった。そして芸が見やすい場所に座を用意してくれたので、二人は心おどる一時を過ごせたのだ。
 老々丸は、長崎屋には妖がいるので、同じ妖の二人に、気を配ってくれたのだろうと話していた。
「その後、われ達は北へ帰りました。でもその時、妖としてもっと強くなったら、若だんなへお礼を言いに来ようと、自分で決めていたんです」
 強くなれたら、師に連れてこられるのではなく、一人で江戸へ来る事ができる。初午祭りは毎年ある。笹丸は、また若だんなに会う為にも、頑張って強くなりたいと思っていたのだ。
 だが、しかし。
「われは、強くなれませんでした。ですがそんな時、師と一緒に江戸へ来る事になりました。だから、とにかく今を逃さず、若だんなに会いたいと思いました」
 今回、老々丸は若だんなを頼ったが、あの時の親切を、覚えていたからかも知れない。笹丸は最後に、そう付け足した。老々丸は、弟子が語り終っても、口を引き結び、だまっている。
 すると、何故だか場久は眉尻を下げ、寛朝は何時にないほど、優しげな顔つきになっている。高僧は、若だんなが思いもかけなかった事を、傍らで口にした。
「笹丸は女の子だからな。優しい殿御とのごと会えば、それは頼もしく思うだろうよ」
「えっ、笹丸ちゃん、女の子だったの? あの、髪が唐子だから、どっちか分かってなかったんだけど」
 小さい子の髪型は、男も女も同じなのだ。ましてや小狐の姿だと、毛並みはどちらも変わらなかった。
「私を覚えてくれてて、会いに来てくれたんだね。嬉しいよ」
 若だんなが笑うと、笹丸はそれは嬉しげに、きゅうと鳴いている。すると寛朝は、笹丸をじっと見た後、化け狐二人へ声を掛けた。
「ならば妖狐達は、広徳寺に泊まって、暫く江戸へ留まっていたらいい」
 荼枳尼天様の庭へ行く為、おぎんに会いたいと言うが、今の若だんなに旅は無理であった。これからのことは、寛朝や若だんな達と、一から考え直しとなる。
「うちの寺には今、化け狸がいる。妖狐がそこに加わっても、余り変わらぬだろうさ」
 妖の世話を受け持つ事になる秋英が、高僧の言葉に溜息を漏らした。そしてそういえば、田貫屋は先程から全く話さず、珍しくも静かだと口にする。
 皆の目が、化け狸の方へ向けられた時、一寸の沈黙の後、魂消たような声が上がった。
「いないっ、田貫屋さんが消えてますっ」