「おとっつぁんが言ってたのは、そういう意味じゃないと思うんだけどねえ」
「じゃあなんだっていうの。夫婦になればずっと一緒にいられていつまでも幸せに暮らせるんでしょう。鉢かづきだってそうだったわ」
「ふうん、鉢かづき姫は知ってるんだねえ。姉やか婆やが話してくれたのかい」
「さあ、誰にきいたかなんて、忘れちゃったわ。お話をきくのは好きだけど」
昔はこの屋敷にももっと人がいたらしいが、今はおたつと老女中と孫一郎しかいない。
孫一郎は頭の中で鉢かづきの物語をなぞりながら、手の甲に顎を乗せた。
「でもねえ、鉢がとれた鉢かづきは結局ただのお姫様だったから。所詮は人と人だったから、宰相と夫婦になって幸せになれたのさ。これが人と人じゃないものだったら、お話の結末は酷いものになっちまうもんなんだよ」
「酷いって、どんなふうに」
「そうだねえ……昔、猿と夫婦になった娘がいたそうだけど。そんな話をきいたことはあるかい」
おたつは小さく首を横に振った。まあ鉢かづきと比べれば有名な話ではないからな、と思っている間に、おたつは池の縁に両手を揃えて置き、黒目がちの目でじっと見上げてきた。その視線にたじろいで、孫一郎は問いかける。
「なに、どしたの。急にお行儀よくなっちゃって」
「だって。してくれるんでしょ、その話。早く。言ったでしょ、お話をきくのは好きなの」
今度はお行儀悪く水面を尾で叩いて催促してくる。そうして乱される透明な水の上を浮かんだまま、白く小さな花びらがいくつも流されていった。
御伽話が得意だと自負したことはないのだが、こう強請られては仕方ないか。それにこの話の悲しい結末を知れば、夫婦になろうなどという考えを変えてくれるかもしれない。
「それじゃあ、一つお話してあげよう」
孫一郎は膝の上で手の指を組み合わせる。話が始まると見て取ったおたつは、振り上げかけた尾を静かに水中におさめ、期待に満ちた表情で孫一郎を見つめた。
△△△
「父っつぁま、姉さ達に何言ったんだ? 随分怒っとったぞ」
「ああ……おすみ」
かなり弱った様子の父親は、そう末娘の名前を呼ぶと、また薄っぺらい夜着を被りなおして床に体を伏せてしまった。
おすみは苛々とした態度を隠しもせず、その夜着を引き剥がしにかかる。
「ほら、いつまでも床にくっついとったって腰は治らんぞ。茶を淹れたからさっさと飲め」
父の身体を引き起こし、その手に欠けた茶碗を握らせた。
父親は無言で色の薄い茶の水面を眺めたかと思えば、ちらちらとおすみの顔を見上げたりして一向に茶碗に口をつけようとはしない。おすみは膝立ちで腕を組み、父を睨みつけた。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「うん……あのな。腰が痛えんだ」
「そんなのいつものことだろ」
「いや……今朝はな、種豆を蒔かんといかんかった」
「それで腰を酷くしたんか。だが蒔き終わったんだろ」
「それがな、半分も終わらんうちに一歩も動けんようになって。それでな、言うてしもうたのよ。誰か替わってやってくれりゃ、三人いる娘の一人くらいは嫁にやるんじゃがなあ、と。そしたら猿が現われて」
「もう喋らんでいい。だいたい解った」
猿の嫁になれと言われたのでは、姉達が怒るわけである。
「バケモンのような大猿じゃった……約束を守らんかったら何をされるか」
このところ猿が村の周辺をうろついているという噂は聞いていた。あんな大猿が暴れたら太刀打ちできないと、村の者は皆怯えているようだ。
「解った。俺が嫁にいってやる」
おすみがそう言うと、父は目を見開いて茶碗を強く握りしめた。茶の水面が細かく揺れている。
「おすみ……本気か。山菜を取りに行けと言ったんじゃないぞ」
「くどい。いくといったらいく」
「ああ、儂が娘を大事に育ててきたのは猿にくれてやるためではないというのに……」
「自分でくれてやると言うたのだろう。諦めろ」
おすみは尚もぶつぶつと呟いている父親を残して部屋を出ると、ぴしゃりと襖を閉めてしまった。
そのままの勢いで家を出ると、目の前に広がる畑を見つめる。今朝方父親がここに種を蒔きそこなったせいでおすみの命運は大きく変わってしまったのだ。
(つづく)