鯉姫婚姻譚

鯉姫婚姻譚

  • ネット書店で購入する

 止まるわけがない。思い切り脚を動かして山道を駆け下りていく。しかしそれほど離れることもできないうちに肩を掴まれて、引かれた勢いのまま地面に転がった。
 おすみは手足を無茶苦茶に振り回して暴れたが、四肢に覆いかぶさるようにして縫い留められると動けなくなった。
 見下ろしてくる猿が息をつく度覗く牙を見て、食い殺される、と思う。しかし猿はそれ以上動かなかった。ここからどうしていいか解らずに混乱しているようだ。
…痛い」
 その言葉に、猿は慌てておすみの上からどいた。
 地面に押し付けられて痛む腕をさすりながら起き上がると、猿はおろおろと体を上下に揺らしておすみを見ていた。おすみはため息を一つ吐いて、続ける。
「人を殺したことがあるなら、解ってるんでねえのか。俺が前にお前さんを刺し殺そうとしたこと」
 猿は答えない。ただバツが悪そうに俯うつむいている。
「死にかけの爺様を手にかけたお前さんと、わが身可愛さに夫を殺そうとした俺。お似合いでねえか。こんな畜生夫婦、人里に出ていい訳があるか。村に下りるのは止めよう。俺が、おすみがいればそれでええと、そう言ってくれねえか」
 おすみは一息でそう言った。
 猿はしばらく黙り込んでいたかと思えば、今更諦められないんだ、と苦々しく呟いた。
 その声色も、顔つきも、仕草も、今までに無い程人間に似ていたから、ああ、本当にもう引き返せないんだな、とおすみは痛感した。

 それは、二番目の姉が考えた策だった。
 そんなもの上手くいくはずがない。実行するつもりなどさらさらなかった。怪しまれるに決まっている。
「父っつぁまは重箱の匂いが嫌いなんだ。臼のまま持って行ってくれ」
 だが、おすみがそう言うと、猿は疑う様子もなく餅の入った大きな石の臼を背に担いで紐で括くくった。
「里帰りの前に、桜を見に行こう」
 おすみの言葉に従って、猿は山道を歩いていく。そう遠くなく川辺の大樹に辿り着く。ちょうど桜が満開で、緩やかな風に乗って花びらが舞っていた。
「ああ、本当に綺麗だ」
 おすみが呟く。
「本当に、墓としてこれ以上は無い」
 猿がそう答えたから、おすみはどきりとしたが、以前におすみが言ったことの口真似だと気が付いてなんとか平静を保った。
「お前さん、本当に村に下りるつもりか。この餅を樹に供そなえて、家に戻ったっていいんだぞ」
「そんなことを言わないでくれ。儂は人が好きなんだ。人と暮らしたくて、その一心で、ここまできたんだ」
 ああ、やはりもう駄目なのだ。
 この猿はあまりにも強欲で、おすみ一人と共にいるだけでは満足してくれないのだ。風に桜の枝が揺れて、花びらが舞い落ちてくる。時折花が一つ、少しの欠けもないまま落ちているのは、小鳥が蜜を吸った花を無造作に投げ捨てるせいだろう。
「お前さん、桜を…」
 そう言いながら猿を見上げると、猿は笑っていた。
 いつもの牙を剥き出しにする下手な猿真似ではない。おすみの微笑みを穏やかに真似るような、そんな笑みだった。

(つづく)