鯉姫婚姻譚

鯉姫婚姻譚

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「馬鹿を言うな。結局、お前さんが拘っていたのは俺じゃなくて人でねえか。嫁なんて誰でも良かったんだ」
 悔しい。
 この猿は結局人に焦がれ続けて、人と暮らせないと悟った後は、人の記憶に残ろうと画策した。それはおすみじゃなくても誰でも良かったのだ。
 馬鹿みたいだ。この猿だから、家族と離れて一緒に暮らしてもいいとまで思ったおすみがまるで馬鹿ではないか。
 猿の宣のたまう人の幸せだと。そんなものが本当におすみの幸せだとでもいうのか。
 おすみはぐらぐらと揺れる頭を無理やり持ち上げて立ち上がると、猿の腕を両手で掴んだ。渾身の力を込めて引けば猿の身体が地面を擦こすってわずかに動く。
「どうするつもりだ、おすみ」
 猿が喉を鳴らして笑いながら問いかけてくる。
 おすみは力まかせに猿を引きずって答えた。
「こんな良いとこで死なせてたまるか。ちんけな猿一匹、無様に川に沈むのがお似合いだ」
 人の男よりよほど大きかったが、不思議とそこまで苦労しなかった。流れる血と一緒に、命の重さまで零こぼれ落ちてしまったようだ。
 地面を引きずった後そのままに残る血の筋に、また桜の花びらが舞い落ちる。
「猿川に、流るる命は惜しくはないが。後で、おすみは泣くんだろうなあ…それが、どうしようもなく嬉しいよ」
「黙れ。黙れ。黙れっ!」
 おすみは力の限り叫んで、猿の身体を川に投げ込んだ。
 とぷん、と小さな音とともに流れを乱した猿の身体は清流に獣の血をばら撒いて、ゆっくりと遠ざかっていく。沈むこともなく、時折突き出した岩に引っかかりながら流れてゆく。
 それを眺めて意味のない言葉を発しながら、おすみは目から流れる涙が川に落ちないように袖そでで拭ぬぐった。川に涙が落ちれば、猿の血と混ざって流れていくだろう。それだけは絶対に嫌だった。

       △△△

「それで、その後はどうなったの」
「それはもちろん。おすみは家族の許に戻って、新しく婿を貰っていつまでも幸せに暮らしたのさ」
 ふうん、と相槌を打ちながら、おたつは長い髪を頻しきりに手櫛てぐしで梳すいている。少し長い話だったから集中力が持たなかったのか、途中からずっとこんな感じだ。なんとか楽しんでもらおうと大きく声を張ったりもしたが、そんな単純なことでは興味を惹ひけない。なかなか難しいものだ。
「これで解っただろう。人と人以外のものが夫婦になろうとすれば、悲しい終わりになってしまうんだよ」
「でも、このお話は、幸せな結末に終わったじゃない」
 孫一郎は返答に困って頭をかいた後、ゆっくり言った。
「おたつ。ちゃんと話を聴いていなかったろう。猿は死に、おすみも悲しんで終わったじゃないか」
「だけど、おすみは結局村に戻って幸せに暮らしたんでしょう。それに、猿は望み通りおすみに忘れられることはなくなった」
 おたつは鱗の煌きらめく尾の先で、池から少し離れた場所にある木を指し示した。
「桜って、あれでしょ。あんなひらひらと散るだけの頼りないものを見るだけで、おすみは胃の腑ふごと吐き出して腐っていくような血の匂いを思い出すんだわ。そして新しい夫の隣で笑うの。ね、素敵でしょう」
「素敵かねえ」
 小さな女の子の考えはよく解らないなあ、と思う。いや、魚の考えだろうか。そもそも父がろくにものを教えず池で放し飼いにしていたせいで、情緒が狂ってしまっているのかもしれない。
 孫一郎の背より少し高いだけの木を見ながらそんなことを考えている間に、おたつははしゃぐように両手の指を顔の近くで組んだ。
「やっぱり決めた。おたつは孫一郎と夫婦になってあげる」
「ううん、諦めないねえ。あたしが首を折って川に流されていくことになっても、おたつは悲しくないのかい」
「何言ってるの。今のお話通りなら、流されていくのはおたつのほうでしょ。でも、おたつは木には登らないし。川でもきっと泳げるわ。きっともっと幸せな終わりになる。絶対にそうなの」
 変わらない無表情のまま、おたつは当然のようにそんなことを言う。
 ひらりと舞った桜の花びらが、おたつの側そばに落ちる。水面に浮くそれは風流をそのまま切り取ったようなのに、そんなものには目もくれず孫一郎を見上げてくる。その視線の強さに耐えきれなくなった。
「おたつ、桜餅って知ってるかい」
 孫一郎が突然話を変えると、おたつは不思議そうに瞬まばたきをした。
「知らない、と思うわ」
「そうかい。桜の葉を使った菓子でねえ、塩気が利いてうまいんだ。今度買ってきてあげようね」
 大抵の子供は菓子が好きだとみて間違いないし、昔近所の寺の池の鯉に向かって団子を放り投げてみた時は勢いよく食べていた。
 余計なものを食わすなと怒る住職もここにはいないわけだし、桜餅の味を知れば、知りもしない猿の血の匂いなどは忘れてくれるかもしれない。
 そうに違いないと決め込んで、孫一郎は尚も桜餅の味について語り続けた。

(第一章 了)
※この続きは、発売中の書籍『鯉姫婚姻譚』でお楽しみください。