「あの! わたし大石和歌と言います! お名前、教えてください!」
恥ずかしいとか、躊躇っていられない。彼とわたしの距離はものすごく遠いのだ。一気につめていかないと。彼は微かに目を瞠って、それから「志波です」ととても甘い声で言った。
「志波、三彦。この店の店長をやっております」
「志波、さん……」
「はい」
にこり。その笑顔は正しくまっすぐにわたしに向けられていて、そう思うと鼻血が出そうになった。わたしは昔から、興奮すると鼻血が出るのだ。だから慌てて上を向いた。
「どうか、なさいました?」
「い、いえ! ありがとうございます!」
鼻血を垂らすところなど、万が一にも見られてはならない。しかし確実に垂れる気配がして、わたしは鼻を摘んで店を飛び出した。ダッシュで店の死角に走り、座り込む。手を離し、俯いた途端、鮮血が一滴垂れた。
「やばい。すごい」
ただでさえ少ない語彙が完全に消えた。とにかく、すごい。すごいやばい。すごい、好き。
「……おい! 和歌!」
マキオの声がして、見ればペットボトルのお茶を二本抱えて走ってくるところだった。鼻血を垂らしたわたしを見て、すぐにポケットティッシュをくれる。
「どうしたんだよ、って訊こうと思ったけど、分かったわ。お前、あの店員に惚れたな」
ティッシュで鼻を拭うわたしに、マキオが呆れたように言う。
「うん。まじで好きみたい。やばい」
「やばい、じゃねえよ。お前昔から、好きな奴の前で鼻血出すよな」
ばっかみてえ、と言いながら、マキオはペットボトルを一本わたしにくれた。空いている方の手で受け取ると、マキオは自分の分を喉を鳴らして飲んだ。
「今度のは、あれ無理だろ。ドラクエでいうところのデスピサロだぞ」
「あー、分かる」
「もう少しレベルに合う奴にしろって」
ティッシュを鼻に詰めて「やだ」と言う。
「絶対やだ。レベル上げればいいんでしょ。頑張る。てかわたし、早いとこピピエンヌ号返してもらわないと。そして門司港に通う。志波さんに、会いに来る!」
志波さん。なんて素敵な名前。一秒でも会えるのなら、熊本と門司港の距離なんてケセラセラだ。宣言すると、マキオがため息を吐いた。
「……れてくるんじゃなかった」
「は? なに?」
「いきなり団子渡して帰っておけばよかったっつったの」
なんだそりゃ。意味を掴めないでいるわたしをよそに、マキオは「仕方ねえか。仕方ねえよなあ。和歌は昔っから、強いモンスターを倒すのが好きだったもんな」と独り言ちる。
「まだドラクエの話? 当たり前じゃん。てか、ドラクエやってて、一角ウサギを倒して満足できるわけないでしょ」
ガンガン冒険しなきゃ。そう言い足すと、マキオは「雑魚モンスターもレベル上げってできんのかなあ」とまたも意味の分からない呟きを漏らした。なんだ、そんなにドラクエがしたけりゃ、ソフトを貸してあげるけど。
「まあ、とにかくお茶飲めよ。今日、すげえ暑いぞ」
マキオに言われて、ペットボトルに口をつける。喉を、冷たくて甘いお茶がやさしく滑り落ちていった。
「はー、美味しい。ありがと、マキオ」
「飲んだら、帰ろうか。それとも、もう一度店に行く?」
マキオが訊き、わたしは少しだけ考える。志波さんに会いたいけれど、また鼻血を出してはならない。そうだ、少し耐性をつけなくては。素敵なひとを見ても鼻血がでないようにする特訓などないだろうか。
「今日のところは帰る。鼻の粘膜の鍛え方調べなくちゃいけないし」
「何じゃそら」
ふっと顔を上げると、夏の空が広がっていた。抜けるような青さと、入道雲の白が鮮やかだ。恋をするたび、視界が急に鮮やかになる気がする。世界がうつくしく輝き始める気がする。いま、わたしの目に映る世界は、とびきりうつくしい。
「恋の季節が、始まったよ」
宣言するように言うと、マキオが「あーあ、大変だ」とぼやいた。