第一話 乾杯のリスタート【1】
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九州に展開するコンビニチェーン「テンダネス」。その「門司港こがね村店」が人気のワケは、どの有名観光地にも近い抜群の立地、郷土色豊かなオリジナル惣菜メニュー、そして、老若男女を意図せず籠絡してしまう魔性のフェロモン店長・志波三彦!
超個性的な常連たちに加え、毎回悩みを抱えた人が訪れる名物コンビニの今度のお客さまは……⁉
累計35万部を突破した心温まるお仕事小説、町田そのこ著『コンビニ兄弟』シリーズの最新刊刊行を記念して、今年も発売前に一話をまるごと先出し公開します。
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ひとりでこんなに美味しいご飯を食べていいんだろうか。
下関市唐戸市場の隣にあるウッドデッキに座り、日浦百合は市場で買ってきたばかりの海鮮丼を口に運んでいた。ウニやイクラ、サーモンやまぐろがふんだんに盛られた海鮮丼はただでさえ美味しいのに、気持ちいい秋の青空と頬を撫でる海風が味わいを深めている。
口の中でイクラがぶちぶち弾はじける。強い歯ごたえに、いままで食べてきたイクラとは一味違う、と驚く。噛もうとする瞬間、ありえない抵抗を感じる。もっと頼りない粒だと思っていたのは間違いだったのか。わたしが食べていたものは果たして本物のイクラだったのか、とすら思う。ウニもそうだ。濃厚なうま味たっぷりのクリームの奥にほんのりと塩味を感じる。とろとろと溶けていく味わいは、初めての美味しさだった。
ああ、美味しい。わたしひとりで食べていいんだろうか。
そう思ったものの、慌てて打ち消す。これからわたしはひとりで食べるし、ひとりで満喫できるのだ。罪悪感など、覚えなくていいのだ。
海鮮丼を食べ終わった後、百合はペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んだ。よく冷えた、甘みのある緑茶がするすると喉を通っていく。満足をため息にして吐き出してから、百合は空を仰いだ。イワシ雲が青空を心地よさそうに泳いでいる。視線を下げると、対岸の門司港に向かって小船が走っていく姿があった。
「……行くか」
小さく呟くと、さっきまで息をひそめるようにしていた心臓がどっどっと高鳴り始めた。胸元に手をあてて、そっと抑える。
日浦百合、三十四歳。今日から、ひとりで生きていくと決めた。
独身のときにローンを組んで買ったカーキ色の軽自動車に乗り込む。後部座席には新婚旅行のときに買った大型スーツケースがひとつと、剥き出しのトースターや扇風機、小物や布団を詰め込んだ段ボールがみっちり詰まっている。それらをさっと見回し、最後に助手席前のグローブボックスに目を向ける。ふたの部分に、子どもが描いたような絵が貼られている。日に晒されて黄ばんだそれは、月日の長さを思わせた。百合はそれを少し眺めた後、エンジンをかけてアクセルを踏んだ。
昨日、百合は市役所に離婚届を提出して、独身の身となった。
夫の輝也から、一ヶ月前に突然申し渡された末の離婚だった。
『お互い、自由に生きよう』
記入済みの離婚届を差し出した輝也は、あらかじめまとめていたらしいA4の用紙も一緒に並べ、離婚の条件について話し始めた。結婚生活の六年間で蓄えた貯金すべてを百合に渡すこと。住んでいる賃貸マンションは輝也が引き続き住むから、百合に出て行ってほしいこと。家財の中で欲しいものがあれば持っていっていいこと。その条件は、悪くなかった。
『もう夫婦としてやっていけないってことは、百合だってほんとうは分かってるだろ?』
結婚式のときはタキシードがとても似合っていて、こんなに素敵なひとがわたしの夫になるなんてと目を奪われたひとが、くたびれたおじさんに見えた。わたしも同じような、くたびれたおばさんになっているのかなあと思いながら、百合は離婚届を自分の方へ引き寄せた。こういうとき何を言えばいいんだろうと考えて、でも何も思いつかずに、『いままでお世話になりました』と言った。
百合の新居となる1LDKのマンションは、門司駅から車で十分ほど離れた高台にあった。林があって海がみえないのが残念だけれど、静かで環境は悪くなさそうだ。契約した駐車場に車を入れた百合は、すぐに一階の管理人室に向かった。
「あのう、1003号室を契約した日浦ですけど」
小窓をノックすると白髪頭の男性が顔を出す。「ああ、どうもどうも」と、人当たりの良さそうな顔で笑う。
「日浦さんね。ええと、管理人の山田です。平日の朝九時から夕方六時までここに常駐していますので、何かあったら仰ってください。土日は管理会社に連絡してくださいね。それで、今日、家電と家具の搬入もある、ということでよかったですかね」
台帳のようなものを見ながら訊かれて、「はい。あと一時間ほどで来ると思います」と百合は答える。
「これからどうぞよろしくお願いいたします」
鍵を受け取りながら言うと、山田は「困ったことがあったら、遠慮なくね」と笑いかけてきた。悪くない印象で、百合はほっとした。
十二階建ての建物の十階が、これからの百合の部屋になる。自室のドアの前に立った百合は三回深呼吸してから、鍵を差して回した。そっと開けると、知らない部屋の匂いがした。百合は靴を脱ぐのももどかしく、室内に飛び込んだ。
「わあああ! すごい! 綺麗!」
築八年の部屋は百合の想像よりも状態が良く、広々していた。リビングは六畳、隣接したもう一部屋は四畳とネットでは表記されていて、とてつもなく狭い部屋なのではないかと危惧していたのだったが、ひとりなら十分な広さだ。キッチンのコンロは二口あるし、なんと食洗器も内蔵されている。バスルームとトイレはそれぞれ独立しているし、洗面台も使い勝手は良さそうだ。
掃き出し窓を開けると、狭いながらもベランダがある。木々が遮っていて景色はよくないけれど、自然に囲まれていると思えばいい。
「わあ、わあ、わあ!」
テーマパークに来た子どものように部屋をぐるぐる走り回ってから、百合はがらんどうのリビングにごろりと寝転がり、ため息を吐いた。ひんやりとしたフローリングの冷たさが心地よい。
「わたしの、部屋かあ」
呟くと、じわじわと興奮してくる。夢みたい、夢みたい。信じられない。わたしは生まれて初めて、ひとり暮らしをするんだ。
夫から離婚を求められてから一週間後、百合は門司港に移り住むことに決めた。内見に行く時間がどうしても取れず、電話とネットを駆使して門司港の賃貸情報を調べ、契約をして、家電や家具の手配も済ませた。そうしながら、自分のどこにそんな行動力が備わっていたのかと何度驚いたか知れない。何もできないつもりでいたけれど、何でもできるじゃないか。
輝也と住んだ部屋から荷物を運び出すのも、へっちゃらだった。輝也は百合が泣くのではないかと危惧したらしく『俺がいない方がいいだろ』と外出して顔を合わせないようにしていたけれど、百合は涙ひとつ零さなかった。気に入っていたオーブンレンジを運び出そうとして、あまりに重たくて断念したときに少しだけ悔し涙が滲んだ程度だ。ひとりで部屋を出て行く哀しさも、婚約時代を含めて六年半共にいた輝也と別れる寂寥も、微塵も感じなかった。
「わたしって、強かったんだ」
声に出して言うと、それが祝福の言葉のように聞こえて百合は笑った。くすくす笑っていると、来客を知らせる音が鳴る。家具か家電が届いたらしい。
「ようし、頑張るぞ」
がばっと起き上がって、百合は玄関へ走った。
それから夕方まで、目の回る忙しさだった。最低限必要なものを買っただけで部屋のコーディネートや配置を全く考えておらず、オロオロすることもあった。業者が帰った後は家中を拭き掃除してまわり、気付けば外が真っ暗になっていた。何となく片付いた部屋を見回すと、お腹がぐうと鳴った。思えば、昼前に唐戸市場で海鮮丼を食べてから何も口にしていなかった。
冷蔵庫にはもちろん何もない。百合は少し考えてから車のキーを取った。今日のところはコンビニご飯でいい。
マンションの近くにはふたつコンビニがあったが、しかし百合は『テンダネス』に行きたかった。九州にしか展開されていないコンビニチェーン、テンダネスに通うのが、今回の転居の理由のひとつでもあった。スマホで位置を確認してから、五分ほどの距離にある門司港こがね村店に決めた。