ループ・オブ・ザ・コード

ループ・オブ・ザ・コード

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 出国の際、私たちは通貨を両替していない。ドルも使えるのではなく、この国の法定通貨がドルなのだ。これに関しては、かなりの議論があった。安全保障理事会、とりわけ常任P5ヶ国5の間で非公式協議が幾度となく行われ、最終的にアメリカが権利を落札していた。
「マイケルさんは、ずっとこちらに?」
「ええ。生まれてからずっと、この国で過ごしています」
 若々しい顔立ちのマイケルだが、30歳は越えているように見える。仮に、少し下だったとしても、物心がついた時期に〈抹消〉を経験しているはずだ。彼は当事者として、この国が消えていくさまを体験している。
「僕の両親は教師で、リベラルでした。いつか来るであろう変革を予期して、グローバルに通用する名前を僕に授けてくれた。マイケルは、再定義リネームで変わったのではない、本当の名前です」
 聞けば聞くほど、見事なクイーンズイングリッシュに感心させられる。まさしく、教育と努力の賜物と言う他ない。それゆえに、語気を強めたマイケルの言葉には、憎しみのようなものが滲んでいる。
「だからと言って、祖国が壊されていくことに憤りや寂しさを覚えなかったわけではないでしょう? 事実、この政策を侵略の一形態として批判している声は、今も少なくありません」
 壊されていく。
 心悦は、自動詞ではなく他動詞の受動態を選んでいた。
「それを僕に聞くのは、あなたに文化大革命についてどう思うか尋ねるのと同じことですよ」
 かなり厳しい皮肉を口にすると、マイケルは続けた。
「僕たちの親世代は罪を犯した。到底許されない、許されるべきではない罪を。…〈抹消〉は、土から腐った国を作り直すべく与えられた恩寵です。ほとんどの国民が喜んでいるんです」
 ぎりぎりで信号が赤になり、マイケルが急ブレーキを踏む。案内表示には、本部まで2キロと書かれている。
「原爆が落とされなかっただけ、まだましですよ。これでも甘いくらいだ」
「おい、言葉に気を付けろ」
 低い声で言うと、オスカーは身を乗り出してマイケルを睨んだ。どうして注意されたのか分からず狼狽うろたえているマイケルのためか、オスカーは一瞬だけ、バックミラー越しに私を見た。本人としては気付かれないようにやったつもりなのだろう、同じように私を盗み見たマイケルは、青信号を待つ間、考え込むようにハンドルの上部を握り締めていた。
…すみません、アルフォンソさん。撤回します。あなたの気分を害する気はなかったんです」
 サングラスを外すと、マイケルは私の方へと向き直った。警護担当者なら、事前に私たちの経歴を読んでいるはずだ。
「気にしないでください。謝罪の必要もない」
「しかし…」
「本当にいいんです。ほんの少し血が流れているというだけで、ルーツと思ったことは一度もない」
 とりあえず車を出すように促す。
 ふたたび謝罪の言葉を口にすると、マイケルはサングラスを掛け、運転に戻った。車内が沈黙に包まれると、居た堪れなくなったのか、オスカーが断りもなくカーステレオの音量を上げる。ラジオの歌番組からはポリスの『キング・オブ・ペイン』が流れてきた。
 父の祖父、曾祖父が日本人であり、私にはわずかに日本の血が流れている。もっとも、私は曾祖父に会ったことがないし、父ですら祖父の顔も知らない有り様だった。日系であると感じさせる何らかの身体的特徴が遺伝しているわけでもない。マイケルへの言葉は、建前ではなく本心だ。
「なあ、厳重過ぎやしないか?」
 オスカーが呆れたように呟く。
 私たちの車は本部の敷地に入っていた。

(つづく)