【試し読み】松家仁之 新潮文庫版『火山のふもとで』①

松家仁之 3作品文庫版3ヶ月連続刊行記念特集

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「ぼく」が入所した村井設計事務所は、毎年7月末になると、北浅間の「夏の家」に仕事場を移動する。その夏は、美しく居心地のいい建築を手がける先生のもと、国立現代図書館の設計コンペに向けての作業がピークを迎えようとしていた。若き建築家の成長とひと夏の恋の行方は―。

デビュー作にして読売文学賞を受賞した松家仁之さんの『火山のふもとで』が1月29日に13年の時を経てついに新潮文庫化されます。更に『沈むフランシス』(2月28日発売)、『光の犬』(3月28日発売)の文庫版も刊行、3月末には最新長編『天使の踏むも畏れるところ』を発売予定です。

3ヶ月連続文庫版刊行を記念し、浅間山の山荘でのかけがえのない日々と、それぞれの生命の瞬きを綴った本作の冒頭部分を、本日から3日連続で特別公開、発売日の29日には新潮文庫版『火山のふもとで』に寄せた特別エッセイも公開いたします。

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「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。
 夜が明けてまもなく目が覚めたぼくは、狭いベッドに身を横たえたまま、階下の先生の気配にじっと耳を澄ませていた。枕元まくらもとにおいた腕時計を手に取り、薄暗がりのなかで文字盤を見る。五時五分過ぎだった。
 玄関の真上にあるベッドつきの書庫で、ぼくは寝起きしていた。明け方、ベッドの下の床から、古い木造の柱と壁をはいあがるようにして、ごとごとと控えめなくぐもった音が伝わってくる。
 それは、玄関の内側にかけてある心張り棒を外して、壁に立てかけている音だ。大きな引き戸を左側の戸袋へと収めたあとは、その向こうにあるドアを家の壁にあたるまで一八〇度押し開き、真鍮しんちゅうのドアノブに麻縄のフックをかけておく。こうすれば風でドアが閉まることはない。それから内側の網戸を引く。先生は散歩に出ていったようだ。夜の森で冷やされた空気が、網戸ごしにゆっくり入りこんでくる。「夏の家」はまた静まりかえる。
 標高千メートルを超える深閑とした森の、明け方の静寂を最初にやぶるのは、先生よりもさらに早起きの鳥たちの鳴き声だ。アカゲラ、イカル、オオルリ、クロツグミ、キビタキ…頭のなかを鳥の名前がよぎっていく。鳴き声に覚えはあっても、どうしても名前の思い出せない鳥もいる。
 日の出のしばらく前から空は不思議な青みをおび、すべてをのみこんでいた深い闇から森の輪郭がみるみるうちに浮かびあがってくる。日の出の時刻を待たずに、朝はあっけなく明けてゆく。
 ベッドを抜けだして、中庭に面した小さな窓のブラインドをあげる。霧だ。いつの間に、どこからきだしたのか、白いかたまりがかつらの枝や葉をゆっくりでながら動いている。静かだった。鳥もあきらめてさえずるのをやめたのだろう。窓をあけて鼻をつきだすように顔を出し、霧のにおいをかぐ。霧の匂いに色があるとすれば、それは白ではなく緑だ。となりにある設計室のブラインドを、音を立てないようにあげてゆく。左右に広くのびた南向きの窓いっぱいに、霧が流れていた。中庭の桂の大木が霧に沈み、霧に浮かんでいる。先生はこんな森のなかを散歩しているのか。道に迷ったりしないだろうか。
 霧がどれだけ深くても、日がのぼればやがてあとかたもなく消えてしまう。鳥たちは何ごともなかったように、ふたたび囀りだす。まもなく先生は帰ってくるだろう。あと一時間もすれば、ほかのスタッフも起きだしてくるはずだ。