【試し読み】松家仁之 新潮文庫版『火山のふもとで』②
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「ぼく」が入所した村井設計事務所は、毎年7月末になると、北浅間の「夏の家」に仕事場を移動する。その夏は、美しく居心地のいい建築を手がける先生のもと、国立現代図書館の設計コンペに向けての作業がピークを迎えようとしていた。若き建築家の成長とひと夏の恋の行方は――。
デビュー作にして読売文学賞を受賞した松家仁之さんの『火山のふもとで』が1月29日に13年の時を経てついに新潮文庫化されます。更に『沈むフランシス』(2月28日発売)、『光の犬』(3月28日発売)の文庫版も刊行、3月末には最新長編『天使の踏むも畏れるところ』を発売予定です。
3ヶ月連続文庫版刊行を記念し、浅間山の山荘でのかけがえのない日々と、それぞれの生命の瞬きを綴った本作の冒頭部分を、本日から3日連続で特別公開、発売日の29日には新潮文庫版『火山のふもとで』に寄せた特別エッセイも公開いたします。
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大学四年の秋になって、いよいよ追いつめられたぼくは、ほとんど可能性のない、しかし自分のいちばんの望みに向けて足を踏みだすことにした。
彼岸をすぎてしばらくした頃だった。東京にはめずらしい赤とんぼの大群が北西の方角からやってきて、上空をホバリングしたり、電線やブロック塀にとまって羽根を休めたりしていた。二階のベランダに出て、物干しや手すりにとまっている赤とんぼを間近に見た。薄い金属のような精巧な羽根と深い赤の胴体、複眼の滲むような輝き。人間の手では決してつくることのできない創造物は、三十分もしないうちに、すべて飛び去っていった。空気の乾いた風のない日だった。
赤とんぼを見送ったあと、自分の部屋の机にもどって、村井設計事務所で働かせてもらえないだろうかとたずねる手紙を、ていねいに、なるべく手短かに書いた。卒業制作で進行中の、車椅子の家族と同居するための小住宅のプランも同封した。投函した封筒がポストの底に落ちる音がはっきりと耳に残った。
一週間ほどして、事務長だという井口さんから電話があった。採用の予定はないが、短い時間なら先生が会ってくれるという。
約束の日、地図でたしかめておいた北青山の事務所を訪ねた。ツタの緑におおわれたコンクリート造三階建ての二階、北に面したほの暗い所長室で先生と話をした。
「坂西徹くんだね」という先生の第一声は思いのほか低かった。左手に外光の入る窓があり、障子ごしの弱い日差しが先生の右の頰を照らしていた。がっしりとした体軀に、生真面目な表情。厳しさはあっても神経質な感じはない。何かの職人だといわれれば納得できそうなしっかりした顎。やわらかな声で話す先生の表情は意外に豊かで、ぼくの言葉に応じて笑顔になったり、ちょっと考えこむような顔つきになったりした。自分の話をこんなにしっかり聞いてくれる人に、ぼくはそれまで会ったことがなかった。
「車椅子のご家族がいらっしゃるのかな」先生が訊いた。
「いえ」
「どうして車椅子の家を?」
「車椅子が家に入ってくると、全体のプロポーションがどう変わってくるのか見たかったものですから」
軽く頷いた先生は、平面図に目を落としながら質問をつづけた。
「住宅の設計では、何がいちばんたいへんなんだろうね」


