【試し読み】松家仁之 新潮文庫版『火山のふもとで』③

松家仁之 3作品文庫版3ヶ月連続刊行記念特集

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「ぼく」が入所した村井設計事務所は、毎年7月末になると、北浅間の「夏の家」に仕事場を移動する。その夏は、美しく居心地のいい建築を手がける先生のもと、国立現代図書館の設計コンペに向けての作業がピークを迎えようとしていた。若き建築家の成長とひと夏の恋の行方は―。

デビュー作にして読売文学賞を受賞した松家仁之さんの『火山のふもとで』が1月29日に13年の時を経てついに新潮文庫化されます。更に『沈むフランシス』(2月28日発売)、『光の犬』(3月28日発売)の文庫版も刊行、3月末には最新長編『天使の踏むも畏れるところ』を発売予定です。

3ヶ月連続文庫版刊行を記念し、浅間山の山荘でのかけがえのない日々と、それぞれの生命の瞬きを綴った本作の冒頭部分を、本日から3日連続で特別公開、発売日の29日には新潮文庫版『火山のふもとで』に寄せた特別エッセイも公開いたします。

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 そして春になった。
 ウールのコートが必要のないほどあたたかな四月一日の夜、事務所近くにあるイタリアンレストランで、ぼくの入所を祝う会が開かれた。
 住宅街の暗がりから甘いかおりが立ちのぼるなかを(カロライナジャスミンという花だと、三年先輩の中尾雪子が教えてくれた)、先生と所員たちがおだやかな声で話しながら歩いてゆく。その夜の光景をいまでもよく覚えている。厨房ちゅうぼうにも給仕にもイタリア人がいるようなレストランで食事をするのは、ぼくには初めてのことだった。
 最後に出てきた「コ」の字型の白いケーキには、角形の赤いろうそくが一本立てられていた。ぼくの教育係の内田さんがわざわざ図面を描いてつくってもらったという。北浅間の「夏の家」をかたどったもので、短く赤いろうそくは屋根の中央に立つ煙突だった。五十分の一のサイズだと内田さんは説明した。「つぎのはそういうわけにはいかなくて、何分の一になるのかな」とその言葉を待っていたかのように、厨房からもうひとつのケーキが運ばれてきた。ひとかかえもあるモンブランだ。山肌はパレットナイフで整えられ、頂上から白い粉砂糖がたっぷりとふりかけられていた。雪の残る春の浅間山だった。誰からともなく声があがる。内田さんが照れくさそうなしかめっつらで言った。
「山には設計図がないんで、それらしく再現するのは案外むずかしいんですよ。等高線入りの地図や写真を何枚もそろえることになってしまって」
「資料は大事だ。ご苦労さまだったね」と少し酔った顔の井口さんが機嫌よく言った。
「シェフにお許しをいただいて、モンブランの整形は手伝わせてもらったんです。『夏の家』の方角から見える浅間のかたちは、もう十年以上見てますから、まあまあそれなりにできたと思うんですけど」
 ケーキの向こう側に座っていた先生が言った。
「こっちはちょうど裏側の、軽井沢サイドから見た浅間だね。追分おいわけ小諸こもろあたりからの眺めはこんな感じだ。よくできてる。労作だね」
 モンブランの浅間山のふもとに「夏の家」が寄り添うように置かれた。内田さんが向きを調整する。赤い煙突から、ろうそくの炎とわずかな煙が立ちのぼっている。図面では何度も見ていた「夏の家」のなかにいる自分を思いうかべた。
 取り分けるまえに、ケーキを中央にして記念写真を撮ることになった。内田さんがいつも持ち歩いているライカのファインダーをのぞいてから、お店の人に渡した。「よろしいですか、撮りますよ」
 うしろの壁際かべぎわには中腰で肩を寄せあう所員が並んでいる。中央に座った先生とぼくの眼鏡には、ろうそくの光が写りこんでいる。先生と並んで写っている写真は、あとになってみればこの一枚だけだった。フラッシュをかずに撮った粒子のあらい写真はやがて、所員の誰にとっても、言葉にならない懐かしさをかきたてるものとなった。