【試し読み】松家仁之 新潮文庫版『沈むフランシス』①
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東京での仕事を三十五歳で辞め、北海道の小さな村で郵便配達をする女。川のほとりの木造家屋で世界中の「音」を集めながら暮らす男。偶然出会った彼らは、急速に惹かれあっていく。からだをふれあうことでしか感じられない安息と畏れ、不意に湧きあがる不穏な気配。その関係が危機を迎えた嵐の夜、もう若くはないふたりが選択した未来とは――。
先月刊行され、発売即重版となり話題を呼んでいる松家仁之さんの『火山のふもとで』(新潮文庫)に続き、第二作『沈むフランシス』が2月28日に新潮文庫化されます。来月3月28日には百年にわたる家族の物語を描いた『光の犬』文庫版も刊行、3月末には最新長編『天使の踏むも畏れるところ』を発売予定です。
3ヶ月連続文庫版刊行を記念し、北海道の小さな村での深まりゆく愛とひと筋の希望の光を描いた本作の冒頭部分を本日より特別公開、3月1日には新潮文庫版『沈むフランシス』に寄せた特別エッセイも公開いたします。
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水にのって、平らに流されてきたものが近づいてくる。
濡れたコンクリート壁にまず右のかかとが、つづいて骨盤の張りだした部分が、一拍遅れて右肩が、接岸に失敗した小舟のように当たってゆく。それがもし空を仰ぎ見ることができたなら、灰色の雲がまだらにひろがる上空を逆光のシルエットで横切ってゆくトンボが見えただろう。あたりに人の気配はない。
人がいないのだから、漂着したものを見て驚く声はあがらない。絶えまない川の音が、無表情に見つめる透明なかたまりとなり、壁に押しつけられ滞留するからだの両肩を素っ気なくぐいと押す。ふたたび動きだすからだが、水の流れにのる。流れだせばこの暗がりを目ざしてはるばるやってきたのだと言わんばかりの勢いまでついて、のびて揃った両脚の足先から、ためらいなく取水口に入りこみ、水路へするりと飲みこまれる。
偶然のかさなりと水の流れが描いたゴールまでのあやうい連繫プレーによって、からだはただただ物理的に水路の奥へとひっぱられてゆく。脳貧血を起こしたようにあたりは真っ暗になる。地表から一・五メートルほど下、本来なら水脈とは無縁の、小麦畑と林の境目をはしる地下導水路は、厳冬期に地表が凍土となり、厚く根雪に覆われても、凍りつくことはない。
漆黒の闇のなか、両手を左右の壁に突っ張れば、ブレーキをかけられたかもしれない。もちろん手を伸ばすことはかなわない。指先はふやけて柔らかいが、関節はかたまって動かない。千分の一の傾斜がつくる浅い水の流れは、体重約六十キログラムのからだを苦もなくおしあげ運んでゆく。暗闇のなかをすべるように、どこかで待っているはずの出口へと、足を船首、頭を船尾にして向かってゆく。スピードは川の流れと大差ないはずだが、水路はひたすらまっすぐだから、流れから外れてゆるやかな渦をまき、とどまるような澱みはどこにもない。鮭が遡上してくることももちろんない。終着点に向かうだけの一方通行は容赦なく速い。
足から向かう暗闇の先に、小さな光があらわれる。水の流れの黒いうねりを光が照らしだす。液体になった黒曜石。明かりは勢いを増し、水の音が大きくなる。流れのスピードがわずかにあがる。学校のプールでクラス全員がバタ足をしているような、なつかしい音。光の方角から逆流してくる新鮮な空気の匂い。急激に光量がふえたとたん、からだがストンと、水路より広く平らで、わずかな傾斜を保つ場所に出る。明るい天井ドーム。両足の裏が鋼鉄の柵に着地するように当たり、そこでからだが止まる。からだを運んできた水だけが柵の向こう側にあっけなく落ちてゆく。見えない小さな滝。落水の音とひきかえに、柵の向こうの暗がりから冷たい空気がわき立ってくる。
ここから先へはもう進めない。進まなくていい。








