【試し読み】松家仁之 新潮文庫版『沈むフランシス』②
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東京での仕事を三十五歳で辞め、北海道の小さな村で郵便配達をする女。川のほとりの木造家屋で世界中の「音」を集めながら暮らす男。偶然出会った彼らは、急速に惹かれあっていく。からだをふれあうことでしか感じられない安息と畏れ、不意に湧きあがる不穏な気配。その関係が危機を迎えた嵐の夜、もう若くはないふたりが選択した未来とは――。
先月刊行され、発売即重版となった松家仁之さんのデビュー作『火山のふもとで』(新潮文庫)に続き、第二作『沈むフランシス』が2月28日に新潮文庫化されます。来月3月28日には百年にわたる家族の物語を描いた『光の犬』文庫版も刊行、3月末には最新長編『天使の踏むも畏れるところ』を発売予定です。
3ヶ月連続文庫版刊行を記念し、北海道の小さな村での深まりゆく愛とひと筋の希望の光を描いた本作の冒頭部分を本日より特別公開、3月1日には新潮文庫版『沈むフランシス』に寄せた特別エッセイも公開いたします。
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先史資料館には警備員と受付をかねた初老の男性が入口のカウンターにいるほかは人の気配がなかった。展示ケースにならぶ大小さまざまな黒曜石の矢尻や石斧を前かがみになって眺めながら横へ横へと歩いてゆくと、二万年前の人間が何かの合図を送ってくるかのように、古い板張りの床がみしみしときしみ、ぎしぎしと鳴った。
安地内村の高い空の下を歩くのも好きだった。乾いた風が、丈のそろった小麦畑の緑の穂をやわらかく撫でながら通りぬけてゆく。不定形なかたちがどこかに向かって動いてゆくのを目で追っていると、気持ちがからだを離れ、そのままふわりと伸びて広がり、あたりに散ってゆくようだった。子どものころもいまも、その感覚はときどき桂子のなかでふいに起こり、桂子をゆさぶる。雲の動きや水の流れ、大木の繁った枝が風にゆれる姿、炎のかたち――名づけようのない動きのあるものを目にすると、視線が吸い寄せられたように離れなくなってしまう。聞こえているはずの音や目に見えるものが頭のなかから消えてなくなる。一体感と疎外感、まったく相反するものに同時に包まれるような感覚。われを失うようでいて、目の前の世界全体がわれになるような。
郵便局長の袖口のオレンジ色の細いモール飾りが桂子の視界にもどってくる。局長は、どうしてわざわざ安地内に来て働こうと思ったのかと訊いていた。桂子は袖口から視線をあげて、局長の目を見ながら答えた。
「東京で暮らすようになってから、枝留や安地内村のことが忘れられなくて、いつか帰ってきたいとずっと思っていました」
帰ってきたい、と桂子が言ったとき、局長はわずかに照れたような表情になり、しかし目はそらさず、そのまま人懐こい笑顔をひろげた。
その顔を見ているうちに、桂子はしだいに居心地の悪さを覚えはじめた。十五年ほど前、大学時代のフィールドワークで二週間、安地内村と伏枯町に滞在し、老人たちの話を聞いてまわったことがある。このときのことについては、まったく触れずにいたからだ。
社会学を専攻していた桂子は、行政区域の合併に関する高齢者の意識調査を研究課題としていた。研究のテーマと方法を決め、フィールドワークの対象地域を具体的に選びだすとき、安地内村を再訪したいと迷わず思った。締切日よりも二週間も早く、桂子は計画書を仕上げて提出した。
指導教官は、これといって目立つところのない、和紙のように静かで物腰の柔かな人だった。研究の進めかたには、ことあるごとに具体的なアドバイスを惜しまなかった。安地内村でフィールドワークを行いたいという桂子のプランについては、北海道ならではの特殊性が調査結果の背景に現れていないかどうか、つまり、歴史や地理、自然条件が、個人の意識にどのように反映されているかもふくめて調査するように、と言った。
研究課題のフィールドワークで安地内村を訪れたことは、郵便局長に隠しておいたほうがいいような後ろめたい話ではもちろんない。そうではあっても、村の老人たちをフィールドワークの対象にしていたことは面接でプラスには働かない気がしたのだ。桂子の勘は、ある程度正しかった。








