【本人による朗読付】役者・山田真歩「沈むフランシス:解説にかえて」試し読み

松家仁之 3作品文庫版3ヶ月連続刊行記念特集

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先月刊行され、発売即重版となり話題を呼んでいる松家仁之さんの『火山のふもとで』(新潮文庫)に続き、第二作『沈むフランシス』が2月28日に新潮文庫化されます。

本作では文庫版特典として、映画『正欲』(2023/岸義幸監督)やテレビドラマ『ブラッシュアップライフ』(23/NTV)、NHK大河ドラマ『どうする家康』(23)など映画・ドラマ・舞台を中心に活躍をされている役者の山田真歩さんに「解説にかえて」をご執筆いただきました。

主人公の一人である桂子は、学生時代にフィールドワークで北海道を訪れ、その土地の空気を吸いながら聞き取り調査を行います。彼女の姿は、役柄を深く理解するために研究を重ね、撮影が終わるとその場から去る役者という職業に似ていると山田さんは綴ります。そして35歳になり、東京の喧騒から逃れ、北海道の忘れがたい街に移り住んだ桂子と、これまでの自身の役者としての移りゆく人生を重ね合わせながら、登場人物の気持ちが揺れ動く本作の魅力を鮮やかに語っています。

さらに今回、「解説にかえて」を山田さんご自身で朗読された音声も特別公開。等身大で書かれた美しい文章を、朗読とともにお楽しみください。

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「いちばん遠くから聞こえてくる音はなんですか?」
 ある小学校の授業中に、こんなふうに言って学級崩壊がっきゅうほうかいからクラスを救った先生がいたという。それまで大声で騒ぎ立てていた子どもたちが途端に口をつぐみ、周囲の音に耳を傾けはじめた。教室の掛け時計の秒針の音、校庭で体育の授業をしている生徒たちの声、空を飛んでいく飛行機の音、鳥の鳴き声…。やがてチャイムが鳴り、みんなガタガタと教室から出ていく。でも、まだ一人だけ、「いちばん遠くから聞こえてくる音」に耳を澄ませつづける男の子がいる。
 松家仁之まついえまさしさんという人は、私にとってそんな男の子のイメージがある。はじめて松家さんにお会いしたのは、テレビ番組「先人たちの底力 知恵泉ちえいず」(伊丹十三いたみじゅうぞう氏の回)の収録だった。とても穏やかで柔らかい話し方をされる方で、たどたどしい私の話を面白がって聞いてくださり勇気づけられた。
 それから半年以上たち、松家さんの長編小説『沈むフランシス』の文庫版の解説を依頼されたときは驚いた。そこには、「色々な人の人生を演じてきた方の視点で本作はどのように映るのか是非感じたままに解説を書いていただきたく存じます」とあった。
 私は「役者」という仕事を通して何を感じてきたのだろう? 松家さんの著作を読み進めながら、あらためて自分の「これまで」と「これから」に思い巡らせた。

『沈むフランシス』が出版されたのは二〇一三年九月三十日。私は、その年の夏の出来事をとくべつよく覚えている。はじめて「青春18きっぷ」を買い、「東北の祭り巡り」と称して一人旅に出かけたからだ。東日本大震災から二年後だったけれど、山形の花笠祭り、宮城の七夕祭りと、街はどこも人でにぎわっていた。でも、岩手の大船渡おおふなと市に着くと、一面がれきの風景がつづいていた。ところどころに残った家のコンクリートの間取りからは、名前の知らない草花が生えていた。
 最後に見た「お祭り」は陸前高田市だった。津波で家を流された人たちが暮らす仮設住宅で盆踊りが行われていた。街灯もなく真っ暗な夜、プレハブ住宅を飾る豆電球の色とりどりの明かりがまぶしかったのを覚えている。
 その旅の間中、私は見知らぬ街を歩きながら、だんだん自分の輪郭が透けていくような気がしていた。携帯電話を握りしめ、家族やこれまで出会ってきた人たちにずっと電話をかけていた。せっかく買った「青春18きっぷ」も各駅停車のスピードに耐えられず、急行に乗り換えて帰ってきてしまった。
 いま思えば、旅の本当の目的は「お祭り」ではなかった。二十代後半で会社を辞め、不安定な「役者」の道を選んで間もないころだった。あのときの自分が感じていたことを言葉にするとしたら、こういうことだったのかもしれない。
「私は何とつながっていればいいのだろう? どこに自分の居場所はあるのだろう?」
 その東北の一人旅から戻ってきて間もなく結婚をした。そして数年後にまた一人になったとき、私はちょうど『沈むフランシス』の主人公の「桂子」と同じ年齢になっていた。

演じることは旅をすることに似ていると思うときがある。いろんな状況にある人物を演じるということは、私にとって、自分の慣れ親しんだ場所からズレて世界を見ることだった。これまでの自分だったら選ばない洋服や靴を身につけ、なじみのない土地の方言をしゃべる。あたらしい役を演じるたびに、「ここから見ると世界はこう見えるんだ」という発見があった。
「桂子」が学生時代に「フィールドワーク」で北海道の村に滞在し、老人たちの話を聞いてまわったという場面が出てくる。研究対象の土地へ実際に赴き、そこで暮らすひとびとと同じ空気を吸い、聞き取り調査をする。なんだか私がやってきたことと似ているなと思った。私も役を深く理解したいと思うとき、そのための準備は自然と「フィールドワーク」に近くなった。
 ただ、〝研究対象〟として誰かと関わり合うことは、どこかに後ろめたさが残る。相手が心を開いてくれればくれるほどさびしさも増す。どんなに深く寄り添ったとしても、自分はそこにとどまらず、いつかは去っていく「よそ者」だからだ。
 思えば、芝居の世界は去っていくことが前提だった。一緒に「家族」を演じていた人たちも撮影が終われば「おつかれさまでした」と別れ、背景もまた更地に戻る。演じれば演じるほど、人格も、人間関係も、住む場所も「借りもの」で、いつかはふせんのようにがれ落ちるものに思えてきた。虚構の世界に住所はなく、芝居が終わると私は客の乗らないタクシーの運転手のように行き先を失った。
 それは住む部屋に現れる。あるとき友人が私の部屋を訪れてポツリとこう言った。「生活の汚れが積み重なっていない部屋だね」。その一言は心の底まで落ちてきてこだました。気づけば私の暮らす空間は、いつでも去っていける旅人の仮住まいのようになっていた。
 子どものころ、「演じること」はいちばん自然で楽しいことだった。私はどこかで何かを落としてきてしまったのだろうか。

※山田真歩さんが登場人物たちに思いを馳せた『沈むフランシス』はこちら。

≪朗読動画はこちら≫

≪『沈むフランシス』本文の試し読みはこちら≫
【試し読み】松家仁之『沈むフランシス』①