第一章 消えた依頼人【3】
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自席に戻り、パソコンを立ち上げた。事務所内全員のスケジュールがわかるソフトを開け、予定を確認する。この後、十八時から覚えのない予定が入っていた。
――本條菜子さま 面談
僕はボスからの伝言メモを思い出した。きっと塚原さんが、気を利かせて入力してくれたのだろう。ボスの予定を見ると、「十九時までCI社」となっている。CI社とは、ボスが顧問を務めるIT企業、サイバーアンドインフィニティ社のことだ。
僕は途中になっていた書面の作成にとりかかった。昨日法律相談にやってきた、賃金トラブルを抱える依頼人の訴状の作成だ。
弁護士業務には、作成しなければならない書類が山のようにある。売買や貸借に関する契約書、依頼人の要求を相手に伝えるための通知書、揉め事を話し合いで解決した場合の協議書や合意書、もちろん裁判にも書面が必要だ。逐一文書に残しておくことは、後で揉めた時に証拠にもなるので、外せない作業である。
パソコンに向かって没頭していると、来客を告げるインターフォンが事務所内に鳴り響いた。
「きっと美里先生のお知り合いの方ですよ」
そう言って、塚原さんが出迎えに行った。僕は作成途中の文書を保存し、パソコンを閉じた。ポケットの中に名刺入れがあることを確認し、依頼人と会う時に必要な書類一式を揃える。
「ご案内しておきました」
戻ってきた塚原さんが、意外そうに目を瞬かせた。なんだろうと思いながら面会席に向かい、依頼人を目にした時、僕は塚原さんの表情の意味を理解した。ボスの知り合いだと聞き、勝手に落ち着いた大人を想定していたが、目の前の依頼人は、グレーの洒落た帽子を目深に被った学生風の若い女性だった。黒地に英文字のロゴの入った帆布のトートバッグを胸元に抱きかかえ、羽織ったレザージャケットに顔を埋めるようにして座っている。こういう場は不慣れなのだろう。壁面書棚にずらりと並んだ判例集を、物珍しそうに眺めていた。
「初めまして。小柳大樹と申します」
歩み寄り、名刺を差し出すと、彼女はこわばっていた頬をふっと緩めて立ち上がった。
「本條菜子です」
帽子をとり、小さく頭を下げる。毛先にカールがかかったセミロングの髪が、ふわりと肩に降りた。
「どうぞ、お座りください」
椅子を手で示すと、彼女は腰をおろし、
「美里先生の言っていた通りでほっとしました」
と、目に笑みを浮かべた。
「何がですか?」
「担当してくれる弁護士さんは、年齢も近くて話しやすいから、安心してって」
その気安さは、僕の方も同じだった。依頼人の中には、僕の顔を見るなり、露骨に不安の色を浮かべる人がいる。こんな二十代の若造で大丈夫かと思うのだろう。そんな時、僕の肩にも自然と力が入る。信頼してもらうべく、話し方や対応に最大限の気を配る。自分より年下の依頼人が来たのは初めてだった。
「それから、特に詐欺事件には、人一倍熱心な弁護士さんだって聞いています」
彼女は、既にこちらに全幅の信頼をおいているかのように微笑んだ。確かに僕は、詐欺事件に特別な思いがある。
「美里先生のお知り合いなんだよね?」
「はい」
「親戚かなにか?」
「いえ。一昨日、ある詐欺グループに追われているところを、偶然通りかかった美里先生に助けていただいたんです」
全然気安い相談ではなさそうだ。どうやら大きなトラブルに巻き込まれているらしい。
「その時、追われている理由を美里先生に話したら、何か手助けできるかもしれないからいつでも連絡して、と名刺をいただいて。その後いろいろ考えて、今日、美里先生に電話させてもらったんです」
これは、ゆっくり事情を聞く必要がありそうだ。僕は、初めて法律相談に来た人に記入してもらう相談票とペンを差し出した。
「まず、これに記入してもらえるかな?」
わかりましたと、彼女はペンを取った。丸みをおびた文字で、ていねいに記入していく。
本條菜子。二十一歳。目黒区青葉台2-△-△△。連絡先090-8954-5△△△。ワールド美容専門学校メイク科在籍。
相談内容の項目で、彼女の手は、ピタリと止まった。
「ここは、どう書けばいいんですか?」
「詐欺事件の相談と書いてくれればいいよ。詳しくはこれから質問していくから」
彼女はうなずいて、書き込んだ。
記入を終えた相談票に一通り目を通すと、僕はペンを手にとり、リーガルパッドを開いた。
「それじゃあ、何があったのか、聞かせてもらえるかな?」
彼女はしばし視線を浮遊させた。
「どこから話せばいいのか」
「初めから、全部話してくれればいいんだよ」
「でも、いろいろ、こみいった事情があって」
頭の中で話す内容を吟味しているのか、彼女はもごもごと口籠もり、視線を落とした。