第一章 消えた依頼人【4】

【試し読み】新潮ミステリー大賞受賞作!『午前0時の身代金』

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イラスト 丹地陽子
イラスト 丹地陽子

「ハンドルネームにアンという名前を使っていて。初対面の時に名前を聞かれて、思わず楠木くすのきあんだと答えてしまったんです。サキはみなみ早希さきという名前で、お互いハンドルネームは本名だったんだねって笑いあったから、その後どんどん言えなくなってしまって」
 周囲の反応に怯えながら強がってきた本條菜子より、本音で語り合える友人のできた楠木杏でいる方が心地よかったという気持ちは、よく理解できた。
 そのうち、早希のマンションにやってくる友人たちにも会うようになり、そこで早希の彼氏にも会ったんです、と菜子は顔を曇らせた。
 南早希の彼氏・川崎かわさき拓人たくと、二十九歳。面倒見がよく、物知りで、リーダーシップのある川崎を、最初はいい人だなと思ったという。だが川崎は、詐欺グループの受け子をまとめるリーダーだった。
「最初はそんなこと、全然わからなかった。一緒に食事に行けばご馳走してくれるし、仲間が風邪をこじらせると、薬や食べ物を届ける。そんな姿を見て、早希が好きになるのもわかるなって思ってました。だから、早希が熱で寝込んでいてアルバイトができないから、代わりに手伝ってくれないかと川崎から突然連絡がきた時、直ぐに引き受けたんです。早希が寝込んでいることは、私も知っていたから」
 菜子は川崎が指定してきた場所へ、直ぐに向かった。練馬区中村橋の住宅街にある小さな公園だ。嫌な予感がしたのは、その公園で、仕事内容を聞いた時だったという。
「向かいの家を指さして川崎が言うんです。直ぐにあの家に行き、息子さんの会社の者ですと挨拶して、封筒を受け取ってきてくれと。女性が行くことになってるからって」
 もう時間だから今直ぐに行け、と考える暇もなく急かされて、菜子はその家のインターフォンを押したそうだ。川崎と会ってから、受け取った百万円の入った封筒を渡すまで、ものの五分くらいの出来事だったという。自分のやったことがだんだん怖くなってきたのは、川崎と別れた後だった。
「さっきのは、いわゆる受け子をやってしまったのではないかと思ったんだけど、しばらくは早希にも言えなかった。口にしたら事実になりそうで、確認するのが怖くて。違う、早希の彼氏はそんなことをする人じゃないって、自分に懸命に言い聞かせてた」
 と、彼女は唇を噛んだ。
 だが川崎は、その日を境に豹変した。菜子にも当然のように、受け子の仕事を命じてきたという。川崎は、菜子が現金を受け取る姿を写真に撮っていて、仕事を断ると「もう同じ穴のムジナだろ」と、メールでその写真を菜子に送りつけた。完全な脅迫だ。それでもう一度受け子をやってしまったと、菜子はこうべを垂れた。
 そんな川崎に反旗を翻したのが、早希だった。菜子を巻き込んだことに気付いた早希は、川崎に「アンを誘うのだけはやめて。私の本当の友達だから。そうお願いしてたじゃない」と、川崎にしがみついて訴えたという。だが、チームを乱す者は容赦しない。性別も自分との親密さも関係ない。川崎はチームのメンバーの前で、自分に歯向かうとどうなるか見せしめにするように、早希を殴りつけた。何度も何度も、メンバー全員が目をそむけるほどにだ。
「一緒に仕事をするから、もう止めて」と叫び、菜子が早希の上に覆いかぶさった時には、既に早希は虫の息だったという。
 救急車で早希を病院へ運び、救命処置を受けた結果、早希はなんとか一命を取り留めた。内臓破裂から腹膜炎を起こし、集中治療室に入っていた早希のところへ、菜子は毎日のように見舞いに通ったという。二週間ほどして、やっと少し話せるようになった早希の手を握りしめ、「どうして川崎なんかと付き合ってるの? 身体が治ったら、一緒に逃げよう」と訴えた。
 早希は菜子の手を両手で包んで微笑むと、こう言ったという。
「それは、帰る場所がある人のセリフだよ」
 早希の両親は、早希が小学生の時に離婚し、一緒に住んでいた母親は、高校生の時に乳がんで他界していた。父親はその後再婚し、小学生と中学生の娘が二人いるため、交流することはほとんどなかったらしい。とはいえ、早希の入院先には何度か姿を見せ、唯一の親族として必要な手続きは行っていたようだ。だが退院後の話になると、口をつぐんでいたという。今の家族に気兼ねして、早希のことは秘密にしているのが、菜子にも手にとるようにわかったそうだ。
「退院した後、早希が一人で動けるようになるまで、私が付き添います」と菜子が言うと、早希の父親の小林こばやし広也ひろやは、心から安堵の表情を浮かべた。「よろしくお願いします」と頭を下げ、菜子に連絡先を告げたそうだ。