第一章 消えた依頼人【5】

【試し読み】新潮ミステリー大賞受賞作!『午前0時の身代金』

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イラスト 丹地陽子
イラスト 丹地陽子

 菜子が行った受け子は計三件、被害総額は四百万円にのぼる。
 訪問した相手の名前、日時、住所などの連絡先、その時の状況や話した内容などを、菜子に出来るだけ詳しく思い出して書いてもらっている間、僕はこの件にどう対処するかを考えていた。
 詐欺罪には、略式起訴による罰金刑がない。起訴されれば執行猶予がつかない限り、刑法第二百四十六条に基づき十年以下の懲役刑だ。これが単独で行った詐欺で、かつ初犯なら、早急に被害者に謝罪に行き、損害を賠償し、示談にすることができれば、不起訴になり前科がつくのを避けられる可能性は高くなる。検察官が被疑者を起訴するか、不起訴にするかを決める判断材料として、示談の成否を最も重視するからだ。
 だが菜子の場合、組織犯罪であり、かつ複数回、受け子を行っている。振り込め詐欺のような組織犯罪は、ほぼ確実に起訴される。特殊詐欺が氾濫している現状において、検察官や裁判官が厳しい態度で臨んでいるのは、犯罪組織を摘発し、根絶しようという意図があるからだ。拘束期間も長くなる。特殊詐欺は一件毎に、別事件として取り調べられるためだ。
 出来るだけ早く身柄を解放してもらうためには、事件の概要や、菜子の心境についてまとめた上申書を作成し、自首に同行することが必須だ。身元を保証し、逃亡の恐れのないこと、証拠を隠滅する恐れのないことを証明する。その準備ができたら、警察に連絡をとり、出頭の日時を確認する。その際には、当日着ていた服や、証拠となるものを、揃えておかなければならない。
 出頭後も、できる限り減刑されるよう、やることは山積みだ。まず被害者全員に会いに行く。菜子の謝罪の意を伝え、損害を賠償し、示談書を取り交わす。そのためにも、自首は大切だ。自首したのと、逮捕されたのとでは、被害者への謝罪の気持ちの伝わり方が違う。
 川崎に脅迫されたことを示す証拠の保全はもちろん、詐欺グループとの決別を示すために、菜子の携帯の電話番号を変更することも必要だろう。親族に情状証人となってもらい、今後どのように監督するのか、法廷で話してもらうことも必要になってくる。菜子の両親とも連絡をとらなくてはいけない。
 これらが全てできれば、執行猶予がつく可能性も見えてくる。菜子に犯罪歴はないものの、詐欺罪三件、被害総額四百万円は、判例からみて、執行猶予がつくかどうかのぎりぎりのラインだ。
 脳裏に「司法取引」の言葉が浮かんだ。二〇一八年六月から施行された司法取引は、検察官の捜査や訴追に協力することにより、自身の刑事処分に関して有利な扱いを受ける制度だ。振り込め詐欺のような組織犯罪の事実解明のためには、内部関係者から証拠を得る必要が多々あるが、なかなか供述を得るのは難しい。加えて昨今は、検察官の無理な取り調べに対する社会批判も高まっており、証拠収集方法の適正化・多様化のために導入された制度が司法取引だ。司法取引が適用される犯罪は限定されるが、いわゆる組織犯罪の「受け子」「出し子」に恩恵を与えて、安楽椅子で多額の利益を得ている黒幕を摘発するというのは、司法取引が検討される際、適用事例としてあげられた代表的な案件だ。
 菜子は川崎拓人の弱みを掴むため、あえて川崎に近づき、証拠集めをしていた。まだ特殊詐欺事件で司法取引の前例はないが、菜子がつかんだ証拠をもとに、司法取引を申し出るのも一つの手段かもしれない。どんな証拠があるのか、具体的に確認する必要がある。
「書けました」
 と、菜子がペンを置いて顔をあげた。菜子から書類を受け取り、目を通す。
 その時、突然バタンバタンと立て続けに激しい音がした。入り口のドアが開いたようだ。
「きゃあっ」
 悲鳴をあげ、菜子が椅子から転がり落ちるように床に座り込んだ。机の下で身体を丸め、ガタガタと全身を震わせている。
「申し訳ありません」
 パーティションから顔をのぞかせ、塚原さんが頭を下げた。どうやら書庫の整理をしていて、棚の本が雪崩のように落ちてきたようだ。
 僕は床に膝をつき、菜子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
 両手で頭をかかえた菜子の首筋に、滲み出た汗が線を描いている。菜子の様相の急変に、僕は驚いていた。
「どうした? 気分でも悪いの?」
「誰か来たんじゃ?」
 菜子が恐る恐る顔をあげた。