第一章 消えた依頼人【7】
更新
「小柳先生は、星に詳しいんですね」
「子供の頃は身体が弱くて、体育も見学ばかりでね。昼間は読書か映画鑑賞、夜は星図鑑を片手に、天体望遠鏡で空ばかり見ていた。故郷の淡路島は星がよく見えたんだ」
「体育を休みがちだと、もてないですよね」
と、菜子が目で笑った。残念ながら、その通りだ。
「今日はありがとうございました」
菜子が突然、腰を折った。
「礼を言うのは早すぎるよ。まだ何もできてない。これからだ」
菜子は顔をあげると、もう一度、空を見上げた。
「ちゃんと償って、誰からも逃げなくて良くなったら、志賀高原で天の川を見てみたいな」
毎日いろんな法律相談をうけていると、時々、一段と応援したい気持ちになる時がある。それは依頼人に、苦難に立ち向かい、前に進みたいという強い意志を感じた時だ。
見えない星を探し続けるように空を見上げる菜子を見て、なんとか力になりたいという思いが込み上げた。
ビルに入り一階のエレベーター前に来たところで、菜子がふと足を止めた。
「小柳先生、携帯取ってきて下さい。私、ここで待ってます」
ビルの中とはいえ、菜子を一人にするのは気がかりだ。
「上まで一緒に行ってくれないか」と言おうとして、菜子が一階の女性用トイレに目を向けているのに気がついた。
「わかった。直ぐに取ってきて、このエレベーター前にいるから」
菜子がトイレの方に歩を進めたのを見て、僕はエレベーターに乗り込んだ。五階で降り、事務所の鍵を開け、自分の席に向かう。机の上で携帯のランプが光っていた。携帯を手に取り、上着のポケットに入れると、直ぐに出入り口に向かった。途中、昨今使用することの少ないFAX機になにか届いているのを見つけ、足を止めた。FAX用紙を取り上げ、内容を確認する。どうやら一斉送信された業者の広告のようだ。熟読する必要もなさそうなので、そのまま置いて事務所を後にした。
一階に降り、エレベーターの前で菜子を待った。携帯で業務メールを確認する。直ぐに返信できるものは、その場で打ち返した。一通りメールの確認が終わったところで時刻を確認すると、十一時を過ぎようとしていた。ここでもう十分は待っているだろうか。
少し長い気がしてきた。菜子は大丈夫なのだろうか。酒で気分が悪くなったのかもしれない。そんなに飲んでいたかなと記憶を辿る。アルコールは、たしか最初に乾杯したプロセッコを一杯飲んだだけのはずだ。酔っている様子も感じられなかった。
こういう場合、常識的には何分くらい待つものなのだろう。さすがにトイレの中に向かって呼びかけるのは憚られる。だが、女性用トイレの方から、物音ひとつしないのも大いに気になった。
携帯に電話してみようと、上着のポケットから自分の携帯を取り出したが、菜子には繋がらないことを思い出す。川崎からの連絡を断つために、電源を切ったままのはずだ。そうこう悩んでいるうちに、また五分が経過した。
さすがに気になる気持ちが躊躇を上回り、女性用トイレの前に行ってみた。
「本條さん?」
トイレの中からは何の物音もしない。
「本條さん? 大丈夫?」
やはり返事がない。急に胸の鼓動が激しくなってきた。
「女子トイレに誰かいませんか? 大丈夫ですか? すみませんが入ります」
声を張りあげ、呼びかけて、僕はトイレの中に足を踏み入れた。
中には誰もいなかった。三つある個室もドアが開いたままだ。
「本條さん」
僕は大声をあげて、廊下に飛び出した。ビルの前に駆け出し、周囲を見渡す。菜子らしき若い女性の人影は見当たらず、駅方面に歩いていく中年の男性二人の後ろ姿があっただけだった。少し離れたところに路駐している車が目に入った。全速力で駆け寄り、中を覗き込む。だが誰もいない。
「本條さん、本條さん」
適切な方向もわからず、ただ声を張りあげた。とんでもないことになったのではないかという焦燥が、僕の脈搏を一段と速めた。
ビルの周囲を駆け足で一周し、一階の管理人室のドアを叩いてみたが、さすがにこの時間は誰もいない。
「あの人たち、どんな手段を使ってでも、居場所を調べ出すから」と言った菜子の言葉が脳裏を往来する。やはり僅かな時間であっても菜子を一人にするべきじゃなかった。激しい後悔が全身を襲った。
携帯を取り出し、僕はボスに電話をかけた。