【試し読み】宮部みゆき最新作『猫の刻参り』③
宮部みゆき最新作『猫の刻参り』、新潮文庫版『小暮写眞館』刊行記念特集
更新

1987年の作家デビュー以来、華々しい受賞歴を誇り、時代を切り取る鋭い視線で大ベストセラーを放ち続けている宮部みゆきさんの新作小説『猫の刻参り』が、2月19日に新潮社から刊行されました。
「三島屋変調百物語」シリーズの主人公は、江戸は三島屋の次男坊富次郎。変わり百物語の二代目聞き手として、客人の数奇な身の上話(変わり百物語)を聞き捨てて、一枚絵に描いています。今回の変わり百物語に登場するのは、お馴染みの化生のもの、化け猫、河童、山姥です。
物語は、富次郎が父・伊兵衛に絵師になりたいと告げる場面から始まります。父からの条件は、変わり百物語を続けながらお店の仕事を手伝うこと。当惑しつつ絵の蟷螂師匠に相談すると、さらに困難な課題を出されてしまい……。
第1話「猫の刻参り」の冒頭、絵師修業と書き手を両立し始めたばかりの富次郎の元に語り手が現れる場面から百物語の主人公おぶんが可愛がっていた猫・シマっことの辛い別れまでを10日間連続で特別公開。
死の淵を覗き、絶望の闇の底に蹴り落とされたおぶんと彼女を支えた猫たち。三島屋の日常と猫好き号泣の百物語の世界、両方をご堪能ください。
*****
は? ねこのとき。初耳である。
「時の呼び名でございますよね」
「ええ。普通は十二支をあてはめてありますが、そのなかに猫が入る場合があるんでございますの」
一日を十二に分け、夜中(午後十一時)から一刻(約二時間)ごとに子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥とあてはめて、時を示す。ちなみに、数字ではこれを四から九の六つの字で数え、真夜中の子の正刻が夜の九ツ、そこから半刻(約一時間)ごとに九ツ半、八ツ、八ツ半と進んでいって、午の真ん中、すなわち正午が昼の九ツとなる。これが富次郎の知っている時の数え方だ。
「十二支のどれかに替わって、猫が入るんでございますか」
富次郎の問いかけに、語り手はかぶりを振ると、「いいえ。そういうことではございません。ただ、あるところに、猫が守っている時の鐘がございましてね。それが鳴り始めたら、猫の刻が始まりますの」
ほかの十二支の場合と同じように、それから一刻のあいだは猫の刻となるのだという。
「猫は夜に狩りをするけものでございますから、猫の刻も真夜中でございます。月も星も消えて見えなくなってしまう、真っ暗な夜」
まっくらなよる。その音を口にのぼせるとき、語り手の瞳の奥も闇になった。
猫が守っている時の鐘か。富次郎は胸が高鳴るのを覚えた。何度聞き手を務めても、話のとば口が見えてくるこの最初の段階が、いちばんわくわくする。
「ああ、なかなか難しいものですわね」と言って、語り手が小さく苦笑した。瞳の奥の闇は散り、むしろ明るいまなざしに戻った。
「いざお話ししようとすると、どこからどう語ればいいやら」
「では、わたしから一つお尋ねしましょう」
富次郎もにこやかに切り出した。
「お祖母様のお話ということでございますが、貴女様がそれを手前どもで語ってやろうと思いついた理由はおありですか」
それは大したものではないと、語り手はすぐに答えた。「二年前に、わたしはその祖母が亡くなった歳に追いつきました」
祖母を懐かしむ想いがそうさせるのか、そのまなざしがいっそう柔らかくなる。
「いつお迎えが来てもおかしくありませんから、この世にいるうちに、この話を誰かにちゃんと聞いてほしいと願うようになったんでございます。それで、評判高い三島屋さんの変わり百物語をお恃みしてみようかと」
「ありがとうございます」
富次郎はあらためて平伏した。顔を上げてみると、語り手は人差し指を自分の左目の下のところにあてていた。
「富次郎さん、お気づきでしょうか。わたしは顔の左半分が――とりわけ目のまわりが痺れたようになっておりましてね。右半分のようにきびきびと動きませんの」
やはり、こちらの気のせいではなかった。「ははあ」とうなずいて、富次郎は先を促した。語り手は手を膝の上におろし、
「十七のとき、夏の暑い盛りに、瘧(熱病)にかかりましてね。母と祖母の話では、七日七晩うなされていたそうでございます」


