【試し読み】宮部みゆき最新作『猫の刻参り』④
宮部みゆき最新作『猫の刻参り』、新潮文庫版『小暮写眞館』刊行記念特集
更新

1987年の作家デビュー以来、華々しい受賞歴を誇り、時代を切り取る鋭い視線で大ベストセラーを放ち続けている宮部みゆきさんの新作小説『猫の刻参り』が、2月19日に新潮社から刊行されました。
「三島屋変調百物語」シリーズの主人公は、江戸は三島屋の次男坊富次郎。変わり百物語の二代目聞き手として、客人の数奇な身の上話(変わり百物語)を聞き捨てて、一枚絵に描いています。今回の変わり百物語に登場するのは、お馴染みの化生のもの、化け猫、河童、山姥です。
物語は、富次郎が父・伊兵衛に絵師になりたいと告げる場面から始まります。父からの条件は、変わり百物語を続けながらお店の仕事を手伝うこと。当惑しつつ絵の蟷螂師匠に相談すると、さらに困難な課題を出されてしまい……。
第1話「猫の刻参り」の冒頭、絵師修業と書き手を両立し始めたばかりの富次郎の元に語り手が現れる場面から百物語の主人公おぶんが可愛がっていた猫・シマっことの辛い別れまでを10日間連続で特別公開。
死の淵を覗き、絶望の闇の底に蹴り落とされたおぶんと彼女を支えた猫たち。三島屋の日常と猫好き号泣の百物語の世界、両方をご堪能ください。
*****
おまえが悲しみと苦しみに苛まれているうちは、こんな話を聞かせたところで、まるっきり作り話のようにしか受け取れず、針の先で突いたほどの効き目もないだろう。むしろ、祖母様も口から出まかせを言いなさると、かえって気持ちを荒ませてしまうかもしれないと危ぶんでいた――
「でも、一つ大きな山を越えた今のお文なら、聞く耳を持ってくれるだろう。だから話して聞かせてあげる、と」
信じる、信じないはおまえに任せる。だけどこれは、真実本当にあった出来事だ。
「遠い昔、祖母が十九になったばかりのお正月明けのことだったそうでございます」
それはおぶん祖母様がこの家に嫁いで来て、二度目に迎える正月だった。
「祖母は、初めての子を月足らずで亡くしたばかりでございました」
七か月ばかりで生まれるというより流れてしまった赤子は、母親も道連れにしかけた。
「熱病にかかったときのわたしと同じように、祖母は十日以上も生死のあいだをさまよったそうでございます」
その間、おぶん祖母様は目が覚めれば痛みに苦しみ、眠れば悪夢にうなされ、生き地獄のなかを這いずりまわっているようだったそうな。
「早く死んで楽になりたい。いや、自分はもう死んでいて、地獄に落ちているのか。だからこんなに苦しいのか。そう思うと泣けてきて、焼けるような涙が流れる。喉は渇いてからからで、声も出ない。息をするだけで胸が張り裂けそうになり、身体のあちこちからずっと血が流れ出ている感じがする」
お文は一本調子に語るが、聞いている富次郎は身体がぞわぞわして縮みあがってゆく。ああ、たまらん。そんな目に遭ったら、自分など半日も保たないだろう。命が擦り切れる前に、正気が底をついてしまうに違いない。
「ときどき、ふっと息が楽になると、楽しかった子供のころや、小娘だったころのことを思い出すんだそうでございます。ああ、懐かしい、帰りたい――」
一人前の女になるなんて、ちっとも良いことじゃない。子供のままでよかった。小娘のままでよかった。
「この家の嫁になどなりたくなかった、と」
ここでいったん言葉を切ると、お文は富次郎の顔を見つめた。
「祖母はこの話を、後にも先にもこのとき限り、わたしだけにしか打ち明けませんでした。わたしにも、よっぽどのことがない限りは教えるつもりはなかったと、話の前置きに詫びていました」
なぜならば、これはどうしたって身内の悪口になるからだ。
「祖父の両親、つまりうちの家業を興した初代夫婦は、祖母にとっては舅姑でございます。祖母のこの話は、そうした人たちの良くないところを語らずには成り立たない内容でございました」
そのあたりは、まだ独り身で男の富次郎にも察しがつく。
「なるほど、わかります」
励ますように一言挟むと、それに勇気を得たように、お文はひとつ息を継いでから続けた。「祖母が最初の子を月足らずで失ったのは、ただ運が悪かったからではございません」
もちろん、本人の咎でもない。


