【試し読み】宮部みゆき最新作『猫の刻参り』⑩

宮部みゆき最新作『猫の刻参り』、新潮文庫版『小暮写眞館』刊行記念特集

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装画 こより
装画 こより

1987年の作家デビュー以来、華々しい受賞歴を誇り、時代を切り取る鋭い視線で大ベストセラーを放ち続けている宮部みゆきさんの新作小説『ねこ刻参こくまいり』が、2月19日に新潮社から刊行されました。
三島屋変調百物語みしまやへんちょうひゃくものがたり」シリーズの主人公は、江戸は三島屋の次男坊富次郎とみじろう。変わり百物語の二代目聞き手として、客人の数奇な身の上話(変わり百物語)を聞き捨てて、一枚絵に描いています。今回の変わり百物語に登場するのは、お馴染みの化生のもの、化け猫、河童、山姥です。
物語は、富次郎が父・伊兵衛いへえに絵師になりたいと告げる場面から始まります。父からの条件は、変わり百物語を続けながらお店の仕事を手伝うこと。当惑しつつ絵の蟷螂とうろう師匠に相談すると、さらに困難な課題を出されてしまい…。
第1話「猫の刻参り」の冒頭、絵師修業と書き手を両立し始めたばかりの富次郎の元に語り手が現れる場面から百物語の主人公おぶんが可愛がっていた猫・シマっことの辛い別れまでを10日間連続で特別公開。

死の淵を覗き、絶望の闇の底に蹴り落とされたおぶんと彼女を支えた猫たち。三島屋の日常と猫好き号泣の百物語の世界、両方をご堪能ください。

*****

―こうして、祖母は両親のいる生家へと帰ったわけでございます」
 語りを続けながら、お文は自身の右肘のあたりをするりと触った。
「柳川村を離れて数日経つと、シマっこからもらった輪っかはすっかり見えなくなってしまったそうなのですが」
 目に見えぬからといって、消え失せたわけではない。輪っかがそこにあることを、おぶんはいつも感じていた。
「シマっこという猫神様の神子と、祖母を結びつける印でございます」
 生家が営む青物の仲買商は堅実に繁盛しており、両親と兄一家の暮らしぶりにも少しゆとりが生まれていた。一方、おぶんをさんざん悩ませたあの「仲人運」の商い仲間は、自分の家のことをお留守にして他家よそにかまけているうちに、女房が病みついてしまったり、娘が嫁ぎ先から戻されてきたりと不運が続き、すっかり音なしの構えとなっていた。
「自分の娘さんが出戻りになってしまったんじゃ、仲人運も蜂の頭もありませんものね」
 お文は言って、鼻先で笑った。当時のおぶんも、きっとこういう顔つきで笑ったに違いなかろう。
「ですから、それから半年ほど後に、祖母に祖父との縁談を持ち込んで、仲人として話をまとめたのは、まるっきり別のお方でございました。母方の知り合いで、大きな料理屋を営んでいたとかで」
 人を雇う機会が多かったので、数多の口入れ屋との付き合いも深かった。お文の祖父の家は、そのなかでも羽振りがよく、しかも、
「その跡取りの一人息子だった祖父は、欠けるところのない満月のようないい男だったそうでございます」
 お文の眼差しがつと泳ぎ、遠くを見た。
「わたしが覚えている限りでも、祖父は上背があり、顔立ちが整っておりました」
 富次郎は優しく問うた。「孫娘のあなたには、いいお祖父じいさんだったのでしょうね」
「大甘でしたわ」
 答えると、お文は富次郎の顔に目を戻して、ほろ苦く笑った。
「わたしたち孫には、およそ目のない祖父で…。ただ、口入れ屋という家業の手前、わたしどもの立ち居振る舞い、行儀作法には厳しいところもございました。人の周旋を生業としている家の子が、だらしなくては恥ずかしい、と」
 至極まっとうな躾けである。
「ええ、まっとうな御仁でございました。だからこそ、祖母もすんなり縁談を受け入れて、祖父のもとへ嫁いだのでしょう」
 柳川村の楽しかった猫たちとの暮らしは終わった。あれは人生のなかの貴重な一幕。幸せに満たされていたからこそ、長く続くものではない。
 人は、人の生を貫くしかない。
「それと、ささやかな内祝言の夜に、祖父が祖母にこんなことを申したんだそうですの」
 ―おぶんは何をするにも、まるで猫のようにおしとやかで、どたばたと物音を立てたりしないね。私はそこが気に入ったんだ。
「それを聞いて、祖母は感じ入りました。自分は猫の巫女だ。そして猫神様の神子であるシマっこの朋輩ほうばいだ。これから夫になろうとしているこの人は、それが何となく判っているのだ。しかも喜んでくれているのだ、と」
 これは正しい縁談だ、この人と添うことにしてよかった、と。
「ところがねえ、それから三月みつきも経たないうちに、祖父は女遊びを始めました。どうやら決まった相手がいるらしく、その女のところに居続けで、ちっとも家に帰ってこない」