闇バイトに群がるアルバイトの真意とは―― 望月諒子『踊る男』試し読み〈木部美智子始動!〉編②

シリーズ累計45万部突破! 望月諒子『踊る男』刊行記念特集

更新

フリーランスライターの木部美智子きべみちこが事件の謎を追い、複雑に絡んだ因縁の糸を解きほぐしていく累計45万部超の大人気「木部美智子シリーズ」。『蟻の棲み家』『野火の夜』などに連なる待望の最新作『踊る男』が1月29日に刊行されました。

アルバイト先をストーカー騒ぎの末に辞めた井守拓実は、逆恨みを募らせ、黒歴史の原点である中学時代の同窓生たちに対し復讐を開始します。Xの中傷投稿、夜陰に乗じた連続暴行事件…。木部美智子は一見無関係な犯行の被害者たちが同じ中学の同窓生であることを見出し、警察に先んじて井守へとたどり着きます。が、彼をいじめた人間ではなく、いじめなかった人間を標的にする、その動機は一体どこから来るのか―? 

『踊る男』試し読み〈井守拓実の狂気〉編に続き、〈木部美智子始動!〉編では、本シリーズの主人公である木部美智子の登場場面を特別公開。美智子の鋭い心理分析が光るサイコ・サスペンス『踊る男』をお楽しみください。

*****

踊る男

踊る男

  • ネット書店で購入する

 六月三十日。東京の空を来たる猛暑の気配が覆っている。
 美智子はフロンティアが入っている出版社のビル前の広い横断歩道で信号が変わるのを待ち、やがて青になり視覚障害者用のメロディが流れはじめると、多くの人びとと同様に従順な牛のように横断歩道を渡る。
 フロンティアの編集部は七階にある。入り口で用向きを伝えて入館証をもらい、エレベーターの中で顔見知りの編集者と会釈し合ったところで、エレベーターのドアが開く。
 部屋の外、廊下まで中川が出てきて美智子を迎えた。このビルはバブルのころ─いまではバブルとも言わないらしい。「日本が好景気だったころ」だ─改築したので、高級ホテルのように、足音を吸い込む赤いカーペットが敷きつめてある。天井は他のビルより高くて、壁にピカソもどきの絵がかけてある。
 文化というのは一見磐石なようで、頽れるときには手の施しようがなくなる場合がある。インターネットが台頭してかれこれ三十年。あのころは大きな箱型のパソコンに二十一世紀の夢と希望が詰まっていると興奮した。海外とリアルタイムで繋がるってどういうことだろうと思った。三十年前に生まれたものがシロアリみたいに裏側を食いつくし、ある時をピークにして紙に書かれた文字文化が頽れた。どんなに抗ってみても無駄。こういうのを時代の趨勢というのだろう。大きすぎる潮目は、戦争勃発の起点と同じで、後にならないとわからない。ビル・ゲイツだって「わからなかった」と言うだろう。ネット文化はスマホ文化を呼んで、いまやスマホの電池が切れたら電車にも乗れないしパンの一つも買えない。生命維持に大切なのは水と米より先に電気というご時世だ。とにかく、紙文化がここまで斜陽になるとは思いもしなかった時代のりっぱな出版社のビルだ。
「五千円でウリって衝撃ですよ。その上、警察は伏せてますが年は十四歳、足立区の中学生らしいです」
「売春を隠したいんだったら、なんで警察沙汰にしたの」
「通報したのは本人じゃなくて通行人です。ビルの多目的トイレで顔中血だらけにして便器にしがみついていたらしいです。通報は六月十四日午後七時。本人は、男に連れ込まれてレイプされたと申告して売春は否定しているんですが、周りには五千円でやらせたのに殴られたと漏らしているそうで」
 真鍋が向こうから急ぎ足でやってきたかと思うと、中川の横に座った。
「聞いた?」
「まだ五分ぐらいです」と美智子。
「いまなんかやってる?」
「昨日一本送りましたよね。闇バイトの記事」─昨日の記事はフロンティアからのリクエストだ。
「わかってるよ、でも闇バイト一本で時間潰してないでしょ」
 それは確かにそうである。
「核の悲しみを繰り返さない会の活動の掘り起こしを」
「また面倒なことをするね」
「原爆被害というと、当初は広島でした。同じ被爆都市でありながら被害報道が広島に偏ったのは、長崎の被災地の事情、いわば街の歴史に起因するという話があります」
 真鍋は難しい顔をした。
「聞いたことはあるよ。でもなにも、そんなところで憎まれ役を買って出ることはないでしょ」
「原爆被害より地域的な感情のほうが優先順位が高かったというのは、今の時代、ある種の啓示であるのかもしれないと思うんです。歴史的な感情は、土地をまっ平らにして多くの人びとを焼き尽くす破壊をもってしても消せないというのは、真実だとすれば怖い話です」
「それは時代に関係のない、想像力の欠如と他者への無関心ゆえだよ。大きな危機がくれば人びとが団結するなんてのはそもそも幻想。何をもってしても自分の感情の方が大事な人間はいるってこと。それに比べて」真鍋は机の上の資料に視線を促した。
「十四歳で、売春は親に隠している。未成年だから、警察も発表しないし、新聞も書けない。だけど、五千円ってのがな。十四歳からそんな安い値段で売春して、便所で顔が腫れ上がるほど殴る蹴るされて。それでも親に詳しく知られたくないから本当のことを言わない。ことの大小がわからない、自尊心がない。この事件のなんと分かりやすくてかわいげのあることか」
 やっぱり情報が多くてどれが本命なんだかわからない。美智子が頭をフル回転させながら真鍋を見ていると「なんでもいいんだ」と彼は言った。
「読者が読みたいと思うこと。この場合、なんだと思う? 売春の安さかね。少女の家庭環境かね。トー横の特殊性かね。そんな値段で買っておいて子供を蹴り倒した男かね」
 美智子はふうと、胸の息を吐き出した。
「なんで暴力をふるったんですかね」と中川。
「やっぱりそれだよな」と真鍋。
「本人は、トイレに連れ込まれて蹴られたと言っているんですよね」
「トイレに連れ込まれて、暴行された上で蹴られた―と」
「じゃ、性行為があったことは否定していないんですね」と美智子は聞いた。
「詳しいことは入ってない。未成年だからね」
「断って腹を立てられたとか」と美智子。
「ああいう子を相手にする場合、断られたらすぐに別の子に行くと思いますよ」と中川。
「ちなみに事件になっているんですよね」
「被害届は取り下げている」
「親も取り下げたんですか」
「そういうことですね」と中川が答えた。
 事件化していないから、警察は表立って動けないし、新聞も書けない。
「だから週刊誌ネタなんだよ」と、真鍋はちょっとうれしげだ。
 振られた仕事は断らないことにしている。それが、地に足のついたフリーランスというものだ。
 美智子は事件概要のコピーを受け取った。

  トー横は子供たちさえいなければただの明るい広場だ。新宿東宝ビルの横を略して「トー横」と呼んでいる。「歌舞伎町」は歌舞伎座を建設する予定でつけた名前だ。今でこそ怪しげな歓楽街のイメージがついたが、そもそもは一流の繁華街にするつもりだったのだろう。まだ明るいうちに下見に行った。
 トー横には、男や女がたむろしていた。男の子や女の子と言うべきかもしれない。漫画か演劇かコスプレ会場から抜け出して来たかのように、浮世離れした格好をしている子がそこここにいる。貧しくて居場所がないというより、存在を主張したい子が集う場所なんだろう。もしくは仲間づくりをしたいのかもしれない。似たような奇抜な格好をしていて、男の子たちは痩せて、化粧をしている子も多かった。
 通りは不思議なほど乾いていて、清潔だ。ゴミのひとつも落ちていない。人臭さというか、陰湿さ、人が人として流す汚汁のようなものが、強力な扇風機で吹き飛ばしたように、ない。臭いも、垢も。見てはいけないものはなく―たとえばホームレスが寝ている姿とか―すべて等価に開け放されている。
 まるでアミューズメントパークだと美智子は思った。仕事と割り切った従業員が勤務するのではなく、非日常を体験したい、眺めてみたい子供たちが集まって作っている、いわば素人参加型テーマパーク。生々しい足を見せるというパークであり、その足をじっと見つめる男たちを見せるというパークであり、二者が誘い合ってホテルに消えるという、普段目にすることのない人間の陰の日常さえ、明るいライトを当てて見せ物にしている。
 この気味悪さって、なんだろう。
 トー横に近い大久保病院と大久保公園からつづく通りが、客を取りたい女たちが立っている場所だ。みな、白い歩道柵にもたれかかってスマホを見ている。それが「客待ち」のサインなのかもしれない。
 不良行為をする子供たちは、一昔前のように大人に反抗的であるとか仲間意識が強いというわけでもない。周辺を聞き込むと、問題の女子中学生の話はすぐに聞けた。
 少女が客を引いたのはこの大久保公園のあたりだが、もともとはトー横にたむろしていたということだ。すると話が聞こえていたのだろう、隣に立っていた、みるからに未成年の少女がこともなげに言った。
「小林心音ここねだよ。その子だったらあそこにいるよ」
 それからその未成年の少女はひょいと顎をしゃくった。
 彼女の視線の先には、左目に大きな眼帯をかけた少女がアスファルトの歩道の端に座り込んでいた。
 あたりはみるみる暗くなりはじめ、街灯が一斉に灯った。

※続きは望月諒子著『踊る男』(新潮社)でお楽しみください。