ここではないどこかから電話が鳴る。ポール・オースター最後の小説『バウムガートナー』試し読み⑤
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S・T・バウムガートナーは九年前に先立った妻アンナの不在を今も受け容れられずにいる。書斎で彼女のタイプ原稿を読み耽り、物忘れがひどいなか、ルーツの地ウクライナを旅したときの摩訶不思議な出来事を書き残す。そんな彼に恩寵が……。
妻を亡くした主人公の喪失感とガードナーに迫る死の気配が交差する本作。その執筆中に、オースターは自身の病も進行していることを知ります。そして「まだ書くべき事がある」と感じ、当初の構想を大きく変え、短編ではなく中編小説になりました。
誰にも訪れる死――。その日を意識していたしていたとしか思えない、オースター作品のエッセンスが宿る名作。その冒頭を、特別公開します。
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ブーツがドスドスと地下室への階段を降りていく音を聞きながら、バウムガートナーは、こうしてずきずき痛む両肱と腫れて疼く膝とを抱えて横たわるに至った奇妙な経緯に思いを巡らす。きっとこの膝のせいで、今後数週間、あるいは夏の終わりまで、ひょっとすると一生、脚を引きずって歩くことになるだろう。まあどうしようもないな、と彼は思い、それから、気の毒なミスタ・フローレスの件、指二本切り落としたという恐ろしい件に思いは戻っていく。自分で自分の体にそんな仕打ちをしてしまうというのはどれほどおぞましいものだろう。単に指が手から離れて落ちるのを見るだけではない、それが自分の責任だと知りながら見るのだ。いろいろ聞くところでは、最近では切断された指もいくらでも縫いあわせることができて、まったく普通に動くように戻せるというが、事実そういう奇跡の修復を経験した知り合いは一人もいない。大丈夫、君のお父さんは元どおりになるよ、とロシータに請けあった言葉が噓でなかったらいいが、とバウムガートナーは考える。子供に噓をついてはいけない。大人が相手なら、時にそのルールを破っても許されるが、子供相手はいけない――絶対に、どんな事情があっても。
いまや彼は、キェルケゴール論のことも、書いている最中だった一文を仕上げるために二階に持って行こうとしていた本のこともすっかり忘れている。妹に電話することも、そもそも自分に妹がいるという事実も忘れている。そういうことが大事な、差し迫った案件だったとき以来、実に多くが起きたのであり、いまではそんな話は、誰か他人の人生に属す事柄のように思える。当面、バウムガートナーとしてはしばらく休み、エドが検針から戻ってくるのを待つこと以外何も考えていない。戻ってきたら、いろいろ親切にしてもらった礼を言って次の任務に送り出そうと思っている。バウムガートナーは目を閉じ、その後の一、二分、思いはあれやこれやのあいだを漂うが、そのうちにあれもこれもなくなって、思いの代わりにいろんな夢の像が入れ替わり立ち替わり現われる。大半は若いころのアンナの像であり、バウムガートナーの目の前で、アンナが彼に向けて微笑んだり顔をしかめたりどこかの部屋をくるくる舞うように横切ったりどこかで椅子に座っていたり爪先立ちになって両腕を天井に向けて伸ばしていたりする。
目が覚めると、部屋に注ぎ込んでくる光で、それなりの時間が経ったことがわかる。たぶん十二分、十五分くらいだろうとバウムガートナーは考えるが、腕時計を見てみると針は一時十分前を指していて、つまり四十五分か一時間ばかり意識が飛んでいたことになる。右側にあるコーヒーテーブルにふと目をやると、本の山の上に、手書きのメモが一枚広げてあるのが見える。読もうと思ったら、紙を指先で摑むために右腕を伸ばさねばならず、そのためには肱の具合を試してみなければならない。よし、こいつは肚を決めてやってみるしかないぞ、とバウムガートナーは覚悟し、その動作を実行する。肱は案の定ズキズキ痛むが、まあ大きなうめき声を一度漏らす程度で事足りる。


