第一話 赤い小鳥【2】

【試し読み】『きみはだれかのどうでもいい人』で話題! 伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』

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ピンク色なんかこわくない

ピンク色なんかこわくない

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 家自体はクリームを挟んだココアクッキーを彷彿とさせる、白と濃い茶色を基調にしたとくに変哲のない二階建てだった。だが、その無個性さこそがむしろ永続性を保証しているように思えた。門を開けるとすぐ石造りの短い下り階段が続いていて、右手側にある玄関を抜けると吹き抜けのリビングになっており、グランドピアノはそこにようやくのびのびと落ち着いた。革張りのソファとガラスのローテーブルのセットもあったが、使われることは来客時を除けばほとんどなかった。私たち家族はたいていガレージの、ダイニングキッチンに直結した勝手口から出入りしていた。集合住宅暮らしに慣れた私たちにとってはそのほうがなんとなく、まるでホテルのロビーみたいなよそよそしい空間に迎えられるよりも落ち着く感じがしたのだ。
 それらの共有スペース以外は、一階にひとつ、二階にふたつ、それぞれ寝室があった。一階にある部屋は妹たちが二段ベッドを置いて使うことになり、二階のふたつのうち、狭いが日当たりはいい部屋と、日当たりはいまいちだが広い部屋が残った。どちらかは両親の寝室になり、残ったほうを私のひとり部屋にする、という段になって、最後の悶着が起こった。最初はもちろん狭いほうを私が使う予定だったが、父が強硬に反対したのだ。日差しがよく入るということはすなわち外からもよく見えるということであり、それをいいことに思春期の娘の部屋を覗くような不埒な輩が現れたら困る、というのがその主張だった。こんなに窓が大きいなんて聞いていない、と言う父の声はいつになく険しく、家族全員が驚かされたのを覚えている。
 家のことで父が口を挟んだのは、記憶にあるかぎりその一度きりだ。しまいには母が折れ、私のピアノも含めて家族みんながやっと、無事に居場所を得ることになった。

 そう、あれは、やっと落ち着いた、と思った矢先、秋も深まってきた夜だった。
 防音用のソフトペダルを踏みながらリビングでピアノを弾いていると、渋い顔をした母から肩を叩かれた。
「悪いけど、部屋を替わってほしいの」
…だれと?」
 母はこれまでの騒動を忘れたのか、私が愚かな質問でもしたように眉を吊り上げた。
 よくよく話を聞いてみると、高校受験を控えた上の妹が、同室の下の妹の潔癖症のせいで勉強に身が入らないと母に訴えたらしい。気丈な彼女にしてはめずらしく、自分のほうがノイローゼになりそうだと半泣きだったそうだ。
「一過性のこととは思うけど、受験生を付き合わせるのはさすがにかわいそうで」
 そのとき弾いていた曲を、私はいまでも覚えている。ビゼーの「ハバネラ」だ。恋多きタイトルロール「カルメン」によく似合う軽やかなアリア。恋は気まぐれ、野の小鳥。
「あの子、最近ずっと変だったやろ。お風呂は異常に長いし、雨も降ってないのに服やらカバンやらぐっしょり濡らして帰ることなんかしょっちゅうで、手も洗ってばっかりいるからがさがさでおばあさんみたいで。食事のときも、箸やらなんやらじろじろ確認されて気ぃ悪いし…お父さんも傷ついてるのよ、ちょっと触りそうになるたびにすごい勢いで振り払われるって。いままであそこまで反抗期が激しい子、うちにおらんかったから」
 実家が関西にあるとはいえ、地元を離れてずいぶん経つにもかかわらず母の方言が抜けないのはそのころから不思議だった。人前に出るときには隠していたものの、家族だけの空間で、とくに機嫌が悪いとその傾向はより顕著になった。一戸建てに引っ越す以前には将来の話になるたび、母が強い語調で父に詰め寄るところを耳にしたものだ。なあ、そろそろ転勤に区切りつけてって頼めへんの? いっちゃんもあの歳になってひとり部屋もないなんてさすがにかわいそうやんか―そう、たしかに言っていた。
「気づかんかったの? お姉ちゃんなのに。しかもあんた、あの子と仲がいいのに」
 私が黙っているのを抵抗と勘違いしたらしく、母は哀願する口調とは裏腹に半眼で腰に手を当てた。
「お願いよ、いっちゃん。このままやったら家族みんながおかしくなるわ。いいでしょ、部屋くらい。どうせあんた、ここでピアノばっかり弾いてるんだし」
「ピアノはここにしか置けないじゃない」
 声が小さくなったのは、ペダルを踏みっぱなしだったせいかもしれない。ピアノの前に座るとそこに足をかけるのは、もはやすっかり癖になっていた。いままで以上に近所迷惑には気をつけないといけないし、妹の勉強の妨げにもなるので、絶対にそのまま演奏するなと母からは引っ越し早々に厳命されていた。
「当たり前やろ。そんなかさばるもの、他のどこに置けっていうんよ?」
 翌日から、私は部屋を移ることになった。