乱暴な二人称を放つ声は震えていたけれど、寒さが原因ではないことはさすがにわかった。身を起こすことも忘れたまま、なにが、と私は訊ねた。
「なにがしたいとか、どうしてほしいとか、なんにもないわけ?」
「喜んでほしいと思ってるけど、だめかな」
「喜ばれるんだったら他の奴ともするの?」
 急な飛躍についていけず、質問に答えるのが精一杯だった。
「しないよ。する理由がないでしょう」
「理由ってなんだよ。金とか?」
 そこでやっと、彼の頭にあるのが私の同級生が起こした事件だと気がついた。
「それがどうして私と関係があるの?」
「答えられないんだ」
「あなたが嫌がるようなこと、わざわざしないよ」
「じゃあ、おれがそういうことしろって言えばするの。死ねって言えば死ぬの」
「言うの?」
「喩えだよ。わかるだろ、それくらい」
「しないよ。家族が悲しむし、学校も混乱するし。それに、そんな理由で実際に私がそういうことするのって、あなたにとってもよくないんじゃないかな―」
「そういうとこだよ!」
 彼はあきらかに怒鳴り慣れていない、上ずったトーンで叫んだ。
「気持ち悪い」
 さすがにびっくりした。言葉自体よりも、移り身の速さに。さっきまであれだけ好きだと言っていたのに、こうも短時間で人は変わるものだろうか。なにもしていないのに。
「バカにしてるよ。こっちは必死なのに適当な態度で、本音なんかまったく見せないで。いまだってこれだけ言われてるのにヘラヘラしてさ。人形じゃあるまいし」
 なにもしないからこそ、なんだろうか。
「そんなふうだから、裏でなにしでかしてるかわかんないって言われるんだよ」
…言われてるの?」
 我に返ったらしく、彼の言葉が途切れた。
 少し前、私は担任から進路指導室に呼ばれていた。
 悩みはないかとか、前いた場所はどんなだったとか、当たり障りのない話から始まり、あれ、私この学校には最初からいるよな、と戸惑っているあいだにいつのまにか、それはまったく痒くない場所を執拗に掻きこわされるような、長時間の生活指導に発展していた。最終的にはもやもやと「くれぐれも学生らしくない素行は慎むように」と注意を受けて帰され、数日後にクラスメートから例の噂を知らされたことでようやく腑に落ちた。他の子はだれもそんな「面談」を受けていないことも、そのとき知った。
「ねえ。二年の女子が援助交際してるって聞いて、私だと思った?」
 予想はしていたけど、答えはなかった。
 彼は振り返りもせず、パンクしていたはずの自転車をスムーズに押して去っていった。ごめん、とつぶやく声が風にまぎれてかろうじて聞こえたけれど、それは防音用のペダルを踏んだピアノの音みたいに頼りなくて、どこへ向けているのかもわからなかった。
 その姿が見えなくなってから私は体を起こし、曲がったリボンタイや乱れたスカートの裾を直した。

 あまりに似たようなことが続くので、そのころになるとさすがに理解していた。たぶんそういう、空気を円滑にする生贄みたいな存在はどこへ行っても必要で、理由はなんでもよく、対象はだれでもよかったのだ。とりあえずみんなが納得しさえすれば。
 彼の言葉で唯一傷ついたとすれば、バカにしてる、という部分だった。
 ひどいことを言われたから、ではない。またか、と思ったからだ。私はだれのこともバカにしたことなんかないのに、なぜかずっと、好意を明言してくれた相手ほど決まってそう口にした。例を挙げればきりがない。いじめっ子に突き飛ばされてできた傷を見て「これからはわたしがまもってあげるからね」と指切りしてきた幼稚園の友達、およびそのいじめっ子本人。女子禁制だった秘密基地ごっこに私だけは参加させるよう、仲間を説得して回った近所の男の子。中学二年生のとき、学校に内緒で音楽準備室の合鍵を作ってピアノを自由に使わせてくれた音楽の非常勤講師。放課後それで練習しているところをよく覗きに来た下級生。
 最後の子はとくに強烈だった。ただ扉の陰から見ているだけだったのでとりあえず放置していたら、ある日いきなり入ってきて、黙って古い本を押しつけてきた。私は活字も古本のにおいも苦手だから開きもしなかったのだけど、しばらくしたらまたやってきて「どうでしたか」と感想を求めてきたので(彼が口を開いたのは、そのときがはじめてだった)適当に答え、それからは打って変わって饒舌な、その物語に対する彼の思い入れにやはり適当な相槌を打った。その数日後、合鍵をくれた先生とふたりで音楽準備室で話をしていたら彼が現れ、いきなり手近にあったバイオリンを持って殴りかかってきたのだ。バカにしている、と狂ったように叫びつづけながら。
 実際にはたいしたケガではなかったけれど、私を庇った先生が弦でまぶたを切って出血したこと、そして彼の大声で人が集まってしまったことで、それはまたたくまに学校中に知れ渡るほどの大騒ぎになった。翌日の放課後、私は校長室に呼ばれて事情を訊かれた。向かい側にはむずかしい顔をした大人たちがずらりと並び(校長、教頭、私の担任、下級生の男の子の担任、それぞれの学年主任)、その端には、目の上に白いキズテープを貼った非常勤の先生も居心地悪そうに座っていた。事件の当事者であるはずの彼が、なぜか問い詰める側、対面に座っているのが少しおかしかった。
 てっきり学校のピアノを無断で借りたことを責められるのかと思ったら、繰り返される質問は謝りようがないことばかりだった。相手に見られていることにはいつ気がついたのか、気がついたならなぜ周囲に相談しなかったのか、本を渡された時点で自覚しなかったのか。
「自覚ってなんのですか?」
「その…相手に期待を持たせたという」
「セックスができるっていう期待ですか?」
 いい大人たちが一斉に息を呑んだので、笑ってしまいそうになった。いったいどっちが思春期なんだかわからない。

(つづく)