第一話 赤い小鳥【5】
【試し読み】『きみはだれかのどうでもいい人』で話題! 伊藤朱里『ピンク色なんかこわくない』
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「そこまでは言っていないだろう。もちろん今回の件は、彼のほうが全面的に悪いがね。ただ彼が言うには、きみが本を渡されて非常に喜んでいたものだから、てっきりきみのほうも……いや、もちろん主観だが」
「さあ、そうかもしれません。喜んでほしいんだろうなとは思ったので」
「その後も、ふたりきりで何時間も話し合ったそうだね。わからないんだよ。きみ自身が彼に対してなにも感じていなかったなら、なぜ、そんなことをしたんだい?」
「そうしてほしいんだろうなと思ったので。べつに、たいした手間でもありませんし」
非常勤の先生が、いきなりがっくりとうなだれた。
そのまま両手で顔を覆ってうめきだしたので、最初はてっきりケガが痛みだしたのかと思った。みんなそれを心配したのだろう。何人かが立ち上がって彼の顔を覗き込んだ、次の瞬間、その目尻から涙がこぼれていることに気づいてそこにいる全員が絶句した。
「バカにしてるよ」
呆気にとられる私たちを後目しりめに彼はつぶやき、人目もはばからず号泣しはじめた。
他の先生たちは薄気味悪そうに沈黙するばかりで、その視線はいきなり泣き出した当の本人よりなぜか、ただ座っていただけの私のほうにまとわりついてきた。私はといえばただ、あんなに泣いたら傷口が開くのにな、と懸念するばかりだった。大の大人が泣き崩れる様子は決して見栄えのいいものではなく、こっそり目を逸らすと壁に掛けられた時計が視界に入った。
「私、そろそろ帰ってもいいですか?」
ピアノ教室の予定があったので訊くと、獣じみた声はいっそう大きくなった。
「悪魔みたいだ」
当事者の男の子は休学したきり登校しなくなり、その先生もしばらく経ってから学校を去った。必然的に、残された私は彼らのぶんまで注目を浴びざるを得なくなった。廊下を歩くだけで視線やささやきにからみついた「あることないこと」がゆらゆらと揺れながらくっついてきて、ロングテールの金魚になった気分だった。渡された本はけっきょく直接返すことができず、かといって持っていくほどの思い入れもなかったので、転校前に図書室の適当な棚に置いてきた。タイトルはたしか『うたかたの日々』。あらすじだけは何年も経ってから夫に聞いたけれど、いまだに読んだことはない。
今度こそ大丈夫かと思ったのに、どうしてみんな狂わずにだれかを愛せないんだろう。それとも、私がそういう愛され方しかできないんだろうか。
彼ら彼女らは勝手に現れては、バカにしている、とひとりで傷ついて去っていく。私はそのたびに、童話に出てくる青い鳥ってこんな気分だったのかな、と思う。自分のことを探して旅立つ子供たちを見送りながら、ここにいるのに、と鳥籠の中で歌う小鳥。違いはだれも私のもとに帰ってこないことだ。みんな新しい居場所を見つけては、しだいに子供じみた言い伝えのことなど存在ごと忘れてしまう。
私だけが、どこにも行けずにひとりで歌っている。
その日、帰宅すると母からおかえりより先に「ちょっと部屋に来て」と言われた。
両親の寝室は大きなダブルベッドが中央を占めていて、嫁入り道具だという母の鏡台が片隅に追いやられていた。母はその備え付けの小さな椅子に座り、鏡に背を向ける格好で私に座るよう促した。向かい合う形でベッドの端に腰を下ろしつつ、あの子なら半狂乱になるだろうな、と思った。
少し前から、下の妹は車で三十分ほどの場所にある父の実家にいた。熱を出して学校を早退し、病院でインフルエンザと診断されてそのままタクシーで連れていかれたらしい。まさか関西にある自分の実家に隔離するわけにもいかないし、同室の私や受験生の次女のことを考えての選択だったのだろう。母は義理の両親のご機嫌とりがてら、あの子の看病のために毎日のように出かけていて帰りが遅かった。
久しぶりにひとり気楽に過ごせるかと思いきや、私はなぜかそれからいつもより眠りが浅くなった。幼いころ何度か行ったことのある父の実家は、昔ながらの日本家屋だ。しょっちゅう裸足で踏みつけられている畳の上に、いつ洗ったかもわからない客用の布団を敷いて、そんな環境であの子が眠れるだろうか。好きなタイミングで手を洗うことすらままならず、パニックになってはいないだろうか。まるで厄介払いみたい、と両親の行為を非難がましく思う一方で、あれだけ汚いものを遠ざけようと心を砕いている彼女がウイルスに感染し、自分が無事であるということがどこか後ろめたい気もした。