部屋に戻っても当然だれもいなくて、自分がなぜここにいるのか、ますますわからなくなった。まるで妹のスポーツブラの中みたい。欲しくもないふくらみや、あるだけで恥ずかしい乳首の突起。無理やり締めつけても決してなくなるわけじゃない。いたたまれなさは閉じた空間の中、雑菌みたいに増殖して体を蝕む。
 知らなかった、あの子はずっとこんな気分だったのか。辛いだろう。永遠にここから出られないような閉塞感で、さぞ毎日、息が詰まっていたことだろう。
 課題も手につかず、制服のままベッドに横になった。
 母の顔に深く刻まれた集中線、恋人のうなだれた背中、バイオリンで殴りかかってきた下級生の血走った白目。やっと理解した。みんな、自分には欲望などないと思い込みたがっている。私がそうしたくてたまらないような、彼らのほうがそれを叶えてあげているような、そういうふりをしないと人は傷ついてしまうらしい。なんて手がかかるんだろう。
 これまでずっと、私は父や母や妹たちのために、この家のために、どうすればいいかを考えてきた。そんな私に、母は好きにしろと言った。どうしたいか、自分で考えろと。
 枕の下からポケベルを取り出した。両親には内緒でお小遣いやお年玉を貯めて買ったものだ。当時、人気絶頂のアイドルがCMで使っていた機種。ショートカットで少年みたいな体つきで、妖精みたいな彼女にだれもが夢中だった。男も女も、生々しさのない中性的な芸能人に注目が集まりはじめていた。
 メッセージを送信し終えて顔を上げると、梯子の脇に妹のスリッパがふたつとも、飛び降りて心中した直後みたいに、丁寧にかかとを揃えて置かれてあった。

 何日かすると、あの子は無事に戻ってきた。いや、無事かどうかはわからない。ピアノ教室から帰って部屋に入るともう二段ベッドの上にいて、てこでも繭の外に出まいと決意した蛹みたいにかたくなに布団にくるまっていた。私の、予想どおりの行動だった。
 翌日の夜を待って、私はなおもそこから動かない彼女に贈り物を渡した。
 偶然立ち寄ったドラッグストアで見かけた消毒用ジェルだった。ただ手指を潤すだけのハンドクリームでも、汚れを洗い落とさなくてはいけないハンドソープでもない。当時としては、まだ目新しい商品だった。
「あんまり洗いすぎると、乾燥して逆に悪いものがつきやすいんだって。これなら消毒もできるし、抗菌っていって肌を守ることもできるの」
 パッケージに書いてあった売り文句をそのまま引用してあげると、妹はおそるおそる蓋を開け、少し鼻を寄せて「…つんとする」と嬉しそうにつぶやいた。無香性とかアロマとかいう発想のない、露骨なアルコール臭が逆に気に入ったらしい。それからおもむろにその透明なジェルを、自分の手の甲に大量に絞り出した。
「ちょっと、出しすぎよ」
 私は二段ベッドの梯子に足を掛け、布団の上にあの子を三角座りにさせて、上体を乗り出してその両手にジェルを塗り込んだ。
 妹はいつもの下着姿だったので、棒のような腕や足も背中も、お腹も剥き出しになっていた。そして、両手以外の場所はすべて、きめ細かいなめらかな肌に覆われていた。私はかつてアトピー持ちだったせいでじつは体のあちこちに痕が残っていたので、傷ひとつない彼女の半裸を目にするたび、身内どころかおなじ人間かどうかも疑わしくなった。嫉妬ではなく好奇心から、美術館に展示された彫刻をこっそり壊してみたくなるような、幼い衝動を内心ひそかにくすぶらせることもあった。
 この子、私の妹なんだ。
 その手に触れて、ささくれやひび割れに肌を重ねたとき、私はやっと、頭ではなく心でそれを理解した。私の背中や太腿に隠されている、これまではひとり静かに撫でて確かめるだけだった、乾きの感触がそこにはあった。菌を殺し、肌を守ると謳われていた痛いほど冷たいヴェール越しに、私はそれをゆっくりと時間をかけて確かめた。幼いころ、皮膚の炎症をくまなく辿って、丹念に薬を塗り込んでくれた指先を思い出しながら。
 荒野をさまよっているようだった。雑草みたいにささくれが生えた爪まわりを指の腹で撫で、赤い口をぱっくり開けたひびをひとつも逃すまいとその線を辿り、指と指のあいだまで入り込んで、ついばむように引っ張った。必死で制服を水拭きする妹の真剣な横顔を思い出し、ごめんねこれまで、と心の中で謝った。左の小指から右の小指まで一本一本、溶けかけた棒アイスを舐めるように握り込んではゆっくりと離す私の手から、妹はずっと目を逸らさなかった。
「はい、できた」
 私が言うと、枯れた花が生き返りでもしたように妹は声を弾ませた。
「いっちゃんは、物知りだね」
「ありがとう」
「ねえ、ずっとこの部屋にいてくれるよね。他の人みたいに見捨てないよね」
「うん、いるよ。いられるだけ」
「私のこと、守ってくれるよね」
 あの子は私の目を見つめながらも、ずっと自分の両手を撫でさすっていた。汚いものや怖いものはなにも触れることはできない、かりそめの魔法に守られた手を。
 うん、といつものように適当にうなずいてやろうとしたとき、私は少し足元のバランスを崩して梯子を握り直した。その瞬間、陶器やガラスの芸術品をバラバラにしてみたいという衝動、とるに足らないものとしてずっと無視してきた子供じみた欲望が、ぐわんと波打つように腹の底からこみあげてきた。
 ―ああ、いまだに覚えている。うねりに身を投じる、あの恍惚。
「でもね。いつまでもこのままじゃ、男の人と結婚して子供を産むこともできないよ?」
 撃ち落とされた鳥のように、あの子の両手がだらんと落ちた。

(つづく)