書くことの本質を問う本格長編 木内昇『雪夢往来』試し読み①
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市井の人々の喜怒哀楽や、生涯かけて一つのものに打ち込む人物の苦悩と幸福を細やかに描いてきた歴史時代小説の名手・木内昇さん。最新刊『雪夢往来』は、江戸のベストセラー『北越雪譜』が世に出るまでの40年にわたるドラマティックな道のりを、作者の鈴木牧之、江戸の著名戯作者・山東京伝、滝沢馬琴、山東京山といった4人の作家の視点から描く物語です。1年の3分の1を雪と共に生きる越後ならではの暮しの知恵や行事、不思議な民話などを豊富な挿絵入りでまとめた『北越雪譜』の原稿は、豪雪を知らない江戸の戯作者や絵師を魅了し、多くの人物が刊行に力添えしたいと申し出ますが、あと一歩のところで何度も頓挫。牧之が遠い越後にいることも相まって、刊行までなんと40年もの歳月を費やしました。
今回の試し読みでは、第一章の二、山東京伝登場の場面から、京伝のもとに義三治の原稿が舞い込み、さらにそれを越後の義三治が知るまでをお届けします。越後・塩沢の縮仲買商・鈴木屋のあるじ・義三治(牧之)は、若い頃に一度だけ行った江戸で雪国の暮しぶりを語ったところ「そんなに雪が降るわけがない」と法螺吹き呼ばわりされます。その悔しさから、雪話を書いて江戸者を見返したいと、商いの傍ら原稿を完成させ、薄い縁を頼って江戸に送ったところ、思いがけず当時の大人気戯作者・山東京伝の手元に届きます。刊行への道のりが幕を開ける物語の大切なパートです。
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二
座敷に寝転ぶと、肘掛け窓に切り取られた空が目に染みた。妙に青い。雲ひとつない空ってなぁ存外風情がねぇなぁ、と山東京伝は嘯く。
「おや。蜻蛉が飛んでいんす」
窓際に座した玉の井が、京伝の目線をなぞって朗らかな声をあげた。蜻蛉はあいにく、京伝の位置からは見えない。
「そろそろ見納めかしれねぇな」
つぶやくと、玉の井が首を傾げた。
「なに、蜻蛉さ。だいぶ冷え込んできたろう。今年終いの蜻蛉かしれねぇよ」
そうじゃなぁ、と柔らかに受けて、玉の井は、畳に放り出した京伝の手の平に、そっと手を重ねた。
最前廓の男衆が運んできた、鮮やかな朱塗りの膳には二、三の肴、それに湯気の立った湯飲みが並んでいる。京伝は、ひと口酒を含んだだけでも目を回すほどの下戸である。だからこうして馴染みの見世に登楼っても、ほうじ茶を所望するのが常なのだ。遣手や男衆は、とんだ野暮天だと陰で嗤っているやもしれぬが、玉の井は微塵も嫌な顔を見せないのがありがたかった。
京伝は寝返りを打ち、玉の井の腰をぐいと引き寄せる。妓の膝が崩れて、その身がしなだれかかってくる。
「おめぇさんは、いつも澄んでるねぇ」
言うと、玉の井はつと窓の外に目を遣って、
「この空のように、でありんすか」
と、まだどこかぎこちない廓 詞で返してきた。
「いやぁ、今日の空は、べたっと同じ色で塗られてらぁね。澄んでる、ってのとは違うよ」
「……わちきには、ようわかりんせん」
京伝は口の端から笑みを漏らし、妓の重みを感じながら目を閉じた。
玉の井は、この春に新吉原は玉屋に入廓したばかりだった。長らく廓遊びから遠ざかっていた京伝が、久々に登楼った見世で見初めた新造で、彼女にとっては京伝がはじめての客である。歳は二十歳と薹が立っているが、ぷっくりと艶やかな唇と常に笑んでいるようにたわんだ目をした器量好しで、なにより苦界に落ちた身にはそぐわぬ天真爛漫な朗らかさを備えていた。馴染みとなってまだ半年だが、十七の歳の差を感じぬほど彼女と過ごす刻は心地よく、今では毎日のように玉屋に通い、ここで稿本をしたためることも珍しくなくなった。
ふた親が早くに死に、弟や妹を食べさせるため奉公に出て働き詰めに働いてきた、けれどついに万策尽きて身を売ったのだ、と辛い身の上話を語るときでさえも、彼女の目は緩やかな弧を描いて、喉に珠でも入れているようなコロコロとよく転がる声を鳴らすのだった。
「己が命運を恨むこたぁねぇかえ」
一度、それとなく訊いたときも、
「へぇ。わちきはここに落ちるまで、やれるだけのことは致しました。不幸な出来事は避けられぬことでありんす。そこからどうにかして立ち上がろうと、悔いのないほど努めれば、いかな命運でも自ずと受け入れられるものでありんす」