書くことの本質を問う本格長編 木内昇『雪夢往来』試し読み③
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市井の人々の喜怒哀楽や、生涯かけて一つのものに打ち込む人物の苦悩と幸福を細やかに描いてきた歴史時代小説の名手・木内昇さん。最新刊『雪夢往来』は、江戸のベストセラー『北越雪譜』が世に出るまでの40年にわたるドラマティックな道のりを、作者の鈴木牧之、江戸の著名戯作者・山東京伝、滝沢馬琴、山東京山といった4人の作家の視点から描く物語です。1年の3分の1を雪と共に生きる越後ならではの暮しの知恵や行事、不思議な民話などを豊富な挿絵入りでまとめた『北越雪譜』の原稿は、豪雪を知らない江戸の戯作者や絵師を魅了し、多くの人物が刊行に力添えしたいと申し出ますが、あと一歩のところで何度も頓挫。牧之が遠い越後にいることも相まって、刊行までなんと40年もの歳月を費やしました。
今回の試し読みでは、第一章の二、山東京伝登場の場面から、京伝のもとに義三治の原稿が舞い込み、さらにそれを越後の義三治が知るまでをお届けします。越後・塩沢の縮仲買商・鈴木屋のあるじ・義三治(牧之)は、若い頃に一度だけ行った江戸で雪国の暮しぶりを語ったところ「そんなに雪が降るわけがない」と法螺吹き呼ばわりされます。その悔しさから、雪話を書いて江戸者を見返したいと、商いの傍ら原稿を完成させ、薄い縁を頼って江戸に送ったところ、思いがけず当時の大人気戯作者・山東京伝の手元に届きます。刊行への道のりが幕を開ける物語の大切なパートです。
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二日ぶりに大門を出て銀座へ戻り、京屋伝蔵店の前を懐手にしてそそくさと過ぎる。今日も客で賑わっているのを横目で確かめ、誰にも見付からぬよう脇の路地へと潜り込み、店裏手に構えた住まいの戸口を後ろ手に閉めて人心地ついた。
少し前までは店の二階に書斎を構えていたが、それを聞きつけた者が、弟子にしてくれ、稿を見てくれ、と客に紛れてひっきりなしにやって来るものだから商いの邪魔になって厄介だと、もとは医者が住んでいたこの家蔵を買い取って移ったのである。
戯作者というのは、所詮、浮き草稼業だ。これに身を捧げるのは博打ゆえ、京伝は一家を食わせるためにも地に足着いた生業を持とうと、四年前、この銀座一丁目に煙管と煙草入れを扱う九尺間口の店を開いたのである。商いは存外すみやかに軌道に乗り、自作の黄表紙で幾度か宣伝したことも功を奏して、今では相当な売れ行きを誇っている。
もっとも京伝は商売に口出しせず、店の仕切りは父の岩瀬伝左衛門に万事任せていたのだが、その父がおととし、七十四になったのを機に突如剃髪して椿寿斎と名を変え、阿弥陀信仰に熱を入れるようになってからは、雇いの男衆らに切り盛りを委ねていた。
京伝は長男ゆえ岩瀬家を継ぐ命運にあるのだが、今のところのらりくらりとこれをかわしている。父は声を荒らげたのを一度も見たことがないほど温厚な質であり、家督についても特になにも言ってこぬから今のところ助かっているが、はてこののちどうしたものか、と近頃では柄にもなく思い悩むことが少なくない。
――相四郎が代わりに継いでくれりゃあ世話ないが。
八つ下の弟の顔が再々浮かぶも、彼は外叔母である鵜飼家へ養子に入り、篠山藩士として勤めているから、今更商いの道に引っ張り込むわけにもいかない。齢三十七にもなると親は老い、所帯のことが否応なく身にのしかかってくる。ことに、以前は女房が引き受けてくれていたあれやこれやを一身に背負わねばならなくなってからは、生臭い俗世に無理矢理引きずり下ろされたようで憂鬱の虫が始終身の内を這いずっている。
女房のお菊が逝って、もう四年だ。気働きがあり、暮らしのやりくりも巧い女で、京伝も両親も安心しきって家のことを任せていたのだが、銀座に越して間もなく血塊を患い、呆気なくいなくなってしまった。
もとは新吉原大籬、扇屋の菊園と名乗る番頭新造だった女で、純粋な心根と聡さに惚れ込んで嫁に迎えたのである。京伝が三十路になった年だった。自分には過分な貴石を手に入れたと当初は有頂天で、お菊が老婆になっても大事にしようと誓っていたのに、たった三年程しか共に過ごすことはかなわなかった。
彼女を亡くしてからしばらくは、なにをする気力も失って、当然机に向かう気にもならず、一年ほどは一冊の稿本も仕上げられなかった。喪が明けてからようよう己を奮い立たせて筆を執り、去年はなんとか三冊の黄表紙を板行した。今年に入ってからは、お菊の死んだことに蓋する勢いで執筆に没頭し、『正月故事談』『虚生実草紙』と続けざまに黄表紙を上板した。とはいえ、ふわふわと虚ろな道を歩いているような、定まらぬ日々は未だ続いている。
京伝は、住まいの戸口脇に設えた書斎に入り、文机の前に腰を落ち着ける。ふと気が向いて、最前沢田東里から預かった稿を今一度開き見た。中に、東里のものらしき断り書きがあるのを見付けて目を通すと、鈴木牧之というこの作者は、越後国塩沢の産で質業を生業としている、とある。
――なんだ、うちと似てるな。
岩瀬家も、京伝の生まれた頃は質屋を営んでいたのだ。父の伝左衛門がかつて質屋に養子に入ったためである。しかし牧之というこの男、京伝より十近く若いにもかかわらず、すでに家業を継いでいるらしい。となると、店を切り盛りしながら、これだけの稿をしたためたということか。
「ふむ」
ひとり唸って、眉間を掻いていると、
「おや、帰ってたのかえ」
と、母が顔を覗かせた。母もまた、父と同じく、京伝のやることに下手に口を挟まず、遊里に入り浸っても嫌みのひとつ言うこともない。ただ、お菊が逝ってからは、早く嫁をとれと珍しく急かすようになった。腑に落ちぬのは、お菊とあれほど馬が合っていたのに、「次に嫁をとるなら、良家の娘を迎えてはどうか」と言い募ることだった。
「昨日、蔦屋さんがいらしたよ。また明日にでも出直します、ってさ」
「そうですか」