書くことの本質を問う本格長編 木内昇『雪夢往来』試し読み⑥
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市井の人々の喜怒哀楽や、生涯かけて一つのものに打ち込む人物の苦悩と幸福を細やかに描いてきた歴史時代小説の名手・木内昇さん。最新刊『雪夢往来』は、江戸のベストセラー『北越雪譜』が世に出るまでの40年にわたるドラマティックな道のりを、作者の鈴木牧之、江戸の著名戯作者・山東京伝、滝沢馬琴、山東京山といった4人の作家の視点から描く物語です。1年の3分の1を雪と共に生きる越後ならではの暮しの知恵や行事、不思議な民話などを豊富な挿絵入りでまとめた『北越雪譜』の原稿は、豪雪を知らない江戸の戯作者や絵師を魅了し、多くの人物が刊行に力添えしたいと申し出ますが、あと一歩のところで何度も頓挫。牧之が遠い越後にいることも相まって、刊行までなんと40年もの歳月を費やしました。
今回の試し読みでは、第一章の二、山東京伝登場の場面から、京伝のもとに義三治の原稿が舞い込み、さらにそれを越後の義三治が知るまでをお届けします。越後・塩沢の縮仲買商・鈴木屋のあるじ・義三治(牧之)は、若い頃に一度だけ行った江戸で雪国の暮しぶりを語ったところ「そんなに雪が降るわけがない」と法螺吹き呼ばわりされます。その悔しさから、雪話を書いて江戸者を見返したいと、商いの傍ら原稿を完成させ、薄い縁を頼って江戸に送ったところ、思いがけず当時の大人気戯作者・山東京伝の手元に届きます。刊行への道のりが幕を開ける物語の大切なパートです。
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三
儀三治は、震える手で書状の文字を追っている。寛政十年の藪入りである。雪深い三国街道を、掻き分けるようにして辿ってきた飛脚がもたらしたのは、山東京伝と銘の入った文であった。
――まさか、あの京伝か。
彼の板本に登場する、獅子鼻の醜男が頭に浮かんだ。江戸の戯作者といえば偉い人だと畏れる気持ちがおのずと湧くが、あの画のお蔭で、京伝だけは以前からどこか親しみやすさを覚えていたのだ。
沢田東江に送った越後の綺談がどうした経緯か京伝の手に渡ったらしく、「興味深いので続きを送るように」と、文にはしたためられてある。
――まことにあの、京伝か。
幾度も同じことを胸の内でつぶやきながら読むうちに、身体のあちこちが灸でもすえられたように火照ってきた。
ひとりでは到底抱えきれず、儀三治は幸吉と共に茂兮の屋敷を訪れた折、打ち明けたのである。住吉神社に続いて、浦佐にある普光寺へ献納する額を作るため句寄せをすることが決まり、性懲りもなく三人でその話し合いをしている席だ。もっとも、
「京伝から文が届いた」
と告げただけで、越後の綺談を密かに書き送ったことは恥ずかしいので伏せた。ためにふたりは、なーして江戸の著名な戯作者がにしを知ってるがだ、と首を傾げた。
「前に読んだ黄表紙の感想を書いて送ったすけ」
この粗放な言い訳をふたりがあっさり信じたのは、以前から儀三治が、江戸で活躍している著名人にこまめに文を書き送っていたのを知っているからだろう。歌舞伎役者の市川海老蔵や絵師の歌川豊国など、気になる人物とあれば片っ端から文を出していた時期があったのだ。
「だどもあの京伝が、文を返すと思うか。戯作に忙しいっぺに」
しつこく儀三治が怪しむと、
「京伝と言ってきてるがっぺ。そうせば、京伝だっぺ」
茂兮が、なにを疑うことがあると言わんばかりに返す。
「忙しいてっても、ただ、ものを書いとるだけだ。縮を売り歩くわけでもねぇ、畑を耕すこともねぇ楽な仕事だすけ、身体も疲れんし、暇もあるっぺ」
幸吉がせせら笑う。この男は、ものを書く苦労をなにもわかっていない。儀三治が内心憤然となったところに、
「しかも、黄表紙てぇ子供だましのもんばっか書いとるようだしなぁ」
茂兮が追い打ちを掛けた。
「そんげんこたねぇ。少し前に出た『金々先生造化夢』は、真面目に働くてことがどっけに大事か書かれた黄表紙で、おれはえれぇ感じ入ったすけ」
反駁したが、ふたりはすでに興味を失ったらしく、
「それより、句の選者をそろそろ決めていかんばんねぇ。句寄せをはじめる前に、ご住職と話さんばならねぇすけ」
茂兮が律儀なところを見せ、
「そうだなぁ。次は前よりもっといっぺこと句を集めてぇなぁ」
と、幸吉がうっとりと宙を見つめる。儀三治はひとつ溜息をつくと、京伝の話を仕舞い、選者の候補を書き並べた紙を広げてみせた。
「おお。支度がええなぁ」
感心するふたりの声を受け流し、これから京伝に送ることになる越後綺談へとそっと思いを馳せている。
〈お手紙忝く拝披奉り候。御家内お揃いで益々ご康健にあそばされ、欣慰至極に存じ奉り候〉
二通目となる山東京伝からの文を開き見るや、儀三治は慌ててそれを文机に置いた。最前までかじかんでいた手の平はいつしか汗びっしょりで、紙に染みでもつけたら事だと急ぎ手を離したのだ。懐から手拭いを出して指の股まで拭う。火鉢の炭も熾さぬ冷え切った部屋にいるのに異なことだと己の肝の小ささを恥じてうつむき、その拍子に京伝の綴った文字が目を潤していっそう身体が熱くなる。
文は、儀三治が先日追加で送った綺談の続きに対する返礼だった。「まだ読みはじめたばかりだが大変面白く、これから刻をかけてすべて拝読するのが楽しみだ」と書かれており、思いも掛けぬ讃辞に儀三治は、総身が浮き上がらんばかりに昂揚した。「雪の時季に用いる藁靴やかんじきなどの道具も詳しく知ることができて助かった」とも京伝は続けており、苦労してそれらの模型を作って送った甲斐があったと小躍りでもしたい心持ちになる。ことに、絵の巧みさに加え文章を褒めたくだりでは、これを評したのが山東京伝だと思えば、かほどの果報がまさか我が身に起ころうとは、という戸惑いにも似た感銘に覆われたのだった。