日本人が母国語で演じたシェイクスピアはルーマニアでどう評価されたのか? 翻訳家・松岡和子が見たシビウ国際演劇祭

『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』刊行記念特集

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ルーマニアの古都・シビウで開催されたシビウ国際演劇祭
ルーマニアの古都・シビウで開催されたシビウ国際演劇祭

 6月21日、夏至の夜、翻訳家・松岡まつおか和子かずこさんはルーマニアの古都シビウにいた。シェイクスピアの全37戯曲を完全翻訳した松岡さん。偉業の最初の一歩となったのは『夏の夜の夢』だが、新訳を手がけるきっかけをくれた俳優で演出家の串田和美かずよしさんが、まさにその『夏の夜の夢』を元にしたオリジナル作品「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」を、シビウ国際演劇祭で上演することになり、原作翻訳者としてそれに随伴しての旅だった。

 日本語がまったく通用しないルーマニアでの上演。稽古場に足を運ぶ「現場翻訳家」として知られる松岡さんは、気分的には「裏方の一員」として劇団員と一緒に緊張していたと言うが、舞台の反響を見てあらためて感じたシェイクスピア作品の価値とは…。

 松岡さんの半生をつづった評伝『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』を上梓した草生亜紀子氏が、旅をリポートします。<本文:草生亜紀子>

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30年の時を経て『夏の夜の夢』

逃げても、逃げてもシェイクスピア

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 松岡和子さんがシェイクスピア37作完全翻訳の長い旅に出たのは1993年、串田さんに『夏の夜の夢』を新訳して欲しいと頼まれたのが始まりだった。翌年のBunkamuraシアターコクーンでの上演から30年の時を経て、今年、2人の盟友の姿はシビウ国際演劇祭にあった。

 シビウ歴史地区にある国立ラドゥ・スタンカ劇場にほど近いサラ・スタジオで行われた初日の上演が終わった後、串田さんは「あー、緊張した!」と漏らした。松岡さんによれば、いつも飄々とした姿勢を崩さない串田さんがそんなことを言うのは極めて珍しいという。

 だが、緊張したのは松岡さんも同じだった。世界共通語とも言えるシェイクスピアの戯曲を元にしているとはいえ、俳優たちが口にするのは日本語で、ルーマニアの人にはストレートには伝わらない。舞台両脇にルーマニア語と英語の字幕を配したが、果たしてそれで十分に伝わるのか、串田さんも松岡さんも心許ないところがあった。実際、初日の舞台では、正面の演者よりも脇の字幕に目をやる観客の姿も見られ、演じていた串田さんたちは緊張を強いられた。しかも、喜劇なのに、笑いがくるはずのところで来ないことがあって、出演者はますます不安になる。客席でそれを見ている松岡さんも、英語字幕は自分の責任ではないとはいえ、ヒヤヒヤし通しだった。

 ところが、1時間50分の芝居が終わると、観客は次々と立ち上がり、温かい拍手を送り始めた。みな柔らかい笑顔を浮かべている。「あー、こんなに伝わっていたんだ!」。串田さんも松岡さんも心から安堵した。俳優たちの身体表現で十分に物語は伝わっていたのだ。

 その確信を得て、翌日の舞台は活気を増した。劇評家でもあった松岡さんは、「(舞台の)空気が回ってる感じがした」と高く評価した。松岡さんは日頃から「ふたつとして同じ舞台はない」と言う。同じ演者が同じ演目をやっていても、お客さんの反応などで舞台は毎回違うのだと。30年前に串田さんが演出した『夏の夜の夢』が、「時を経て、生まれ直して、今しかないお芝居になっている。世界には戦争が溢れて30年前以上にホモサピエンスの滅亡を予感させる状況の今だからこその新しい『夏の夜の夢』が生まれている」と、松岡さんは語った。

CGやAIの時代に「最先端にあるのがライブ」

松岡さんの大好物、チョルバ。確かにクセになる味。
松岡さんの大好物、チョルバ。確かにクセになる味。

 松岡さんはこうも言う。「CGAIの発達によってフェイクなものが増えて画像や映像が信頼できなくなっているなか、信用できるのは生身の人間が目の前にいるライブだけになっている。一周回ってライブがパフォーミングアートの最先端に来ているのです」。

 その生の瞬間を全身で受け止めるように、松岡さんは自分が訳した言葉に音と動きを与えていく俳優たちを食い入るように見つめ、愉快な場所では笑い声を上げて味わっていた。

 舞台稽古と2回の公演の合間を縫って、松岡さんはバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフが肉体を論じた一人芝居を撮影したベルギーの演出家ヤン・ファーブルの映画を見て、動物たちに会いにシビウ動物園に足を運び、メインストリートで繰り広げられる数々のパフォーマンスを楽しんだ。

 演劇の街シビウを何度も訪れている松岡さんには、楽しみにしている食べものがある。チョルバと呼ばれ、鶏や牛、豚の内臓などを煮込んだシチューで様々な種類がある。サワークリームで少し酸味を効かせてあり、確かにクセになる味だった。正味4日の滞在の間に2回食べることができた。

ドローンショーで描かれた「やさしさが流れる」

俳優・演出家の串田和美さん(左)と翻訳家・松岡和子さん
俳優・演出家の串田和美さん(左)と翻訳家・松岡和子さん

 夏至の夜、国立ラドゥ・スタンカ劇場脇の広場で、演劇祭の始まりを祝うドローンショーが行われた。争いが蔓延する時代の演劇祭はどうあるべきかという主催者の思いを込めた2024年のテーマ「フレンドシップ」が、ドローンの編隊によって夜空に描き出された。

 この演出の中で、松岡さんと私が思わず顔を見合わせる一幕があった。男の子と女の子(だったと思う)が向き合って手を取り合うと、心臓から体をくるりと巡った赤い血流(のようなもの)が、つないだ手を通して、もう1人の体の中に流れ込んで一巡したのだ。

 まさに「やさしさが流れた」。

 4月に上梓した拙著『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』の中で多くの人に心に響いたと言ってもらった一節だ。義母が認知症になった時、松岡さんは3年間自宅で介護した。折り合いの悪かった義母の介護を自分の健康を害するまでやったのは何故かと問う私に、松岡さんはこう答えた。「触れるとやさしさが流れる」からだと。義母の弱々しい体に触れて背中を流していると、頭には厭な思い出が残っていても手からやさしさが生まれて相手の体に流れていく。松岡さんはそれを実感したから介護を続けられたのだと言った。

 ルーマニアの北で国境を接するウクライナでは今も戦争が続いている。ドローンはそこで暗躍する新たな戦争の道具でもある。そうした複雑な気持ちはありながらも、夜空に描き出される「やさしさが流れる」光景を見ていると、このやさしさが世界に流れてくれたらどんなにいいかと祈らずにはいられなかった。

【もっと読む】「実にしなやかで逞しい」直木賞作家・松井今朝子がみた、シェイクスピア戯曲を完訳した翻訳家・松岡和子の半生。

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草生亜紀子
(くさおい・あきこ)…国際基督教大学、米Wartburg大学卒業。産経新聞、The Japan Times記者、新潮社、株式会社ほぼ日を経て独立。2024年4月現在、国際人道支援NGOで働きながら、フリーランスとして翻訳・原稿執筆を行う。著書に『理想の小学校を探して』(新潮社刊)、中川亜紀子名義で訳した絵本に『ふたりママの家で』(絵・文パトリシア・ポラッコ、サウザンブックス社刊)がある。