わたし、定時で帰ります。

わたし、定時で帰ります。

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「安心しろって、制作統括はおシズだから」石黒がスプーンを舐めています。「あいつがこれまで何度、同僚の馴れ初め映像作ってると思う? 親族への配慮も万全だ。俺ら結婚否定派なんか、制作現場に近づくな、って言われて速攻外されたもん。な、泰斗?」
「否定派なの?」と柊に問われて「だって相手、種田さんだよ」と来栖が答えています。
「東山さんの人生だからどうこう言うつもりはないし、社会人として祝福はするけど、種田さんと二人で過ごすなんて僕なら三分で窒息する自信ある」
「じゃ、なんで二人で会いたいとか送ってきたんだよ」
 晃太郎がムッとした様子でつぶやきましたが、来栖や柊には聞こえていないようです。
「そっか、僕は結衣さんがお義姉ねえさんになってくれるのが嬉しいし、気が変わらないうちに兄を引き取って欲しい一心で、手放しで賛成しちゃった。石黒さんも、相手がうちの兄だってことが納得できないんですか」
「それ以前に、結婚制度そのものに疑問がある」石黒が低い声で言います。「家庭は牢獄だ。既婚者とは囚われ人だ。自ら自由を手放すな。今からでも遅くない。そういう重要なメッセージを俺は映像に入れたかった」
 一瞬の間の後、柊が来栖に視線を移し、その来栖は晃太郎にこう言いました。
「そんなわけで二人とも賤ヶ岳さんにチームから外されたんですが、お二人の馴れ初め情報が東山さんから賤ヶ岳さんに伝わってる内容しかないねって話になりまして。種田さん側の視点もほしいと脚本家の甘露寺先生がおっしゃってます。で、我々がヒアリングに差しむけられたというわけです」
「でもさ、このメンバーが揃ってるなんて知ったら種田は絶対来ねえだろ」と、石黒が後を引き取って喋ります。「俺がそう言ったら、弟くんが泰斗を使えって言い出して」
「ほら、コーニーって泰斗のことは認めてて、結構好きじゃん? なのに未だに反発されてて接し方がわからない。来月には結衣さんもチームから異動してしまうし、その前に上司と部下としてもっと気安く話せるようになっておきたいなー、とか思ってるじゃん? だから、泰斗がデレれば飛んでくるよって石黒さんに提案したの。ね」
 柊にそう振られて、晃太郎と目を合わさず、来栖がうなずきました。
「東山さんのために、しかたなくデレました」
「種田、すげえ速さで飛んできたもんな。どんだけ泰斗に飢えてんだよ! だけど、甘露寺の方は寝坊で欠席だってよ。さっき泰斗が電話したらお母さんが出て、まだ寝てますって。もう十八時だけどな。種田マネジャー、ちゃんと新人教育してるんですかあ?」
 わざとらしく上司口調で言われ、晃太郎は「申し訳ありません」と言って目の前のハイネケンをまた飲み干してから、石黒に見えないように、胸の中で小さく嘆息しました。
 彼はこういう場が苦手なのよ、とSiriが囁いてきました。
 クラウドのデータによれば、この六年間、社内チームの打ち上げやクライアントとの懇親会など業務として行われたものを除けば、晃太郎が同僚と飲みに行った記録はないそうです。前の会社でも今の会社でも、結衣以外の会社の人間とプライベートで会ったことはないとのこと。職場で仕事以外の会話をすることもほとんどないそうです。
 だからこういう場でのふるまいがわからない。一刻も早く帰りたそうです。
「なるほど、この会の趣旨については理解しました」
 姿勢をただし、律儀なサラリーマンの顔になったのは、これはあくまで仕事の一環、上司や部下との非公式コミュニケーションの場だと割りきることにしたからでしょう。
「私たち夫婦のために貴重な休日を割いてくださってありがとうございます。このメンバーに不安がないと言ったら嘘になりますが、ヒアリングに協力させていただきます」
「じゃ、承諾も取れたんで、始めましょうか」
 来栖がAndroidを手に取って、ボイスレコーダーアプリを起動しています。
…スタートっと。では最初の質問。お二人の出会いは五年前、種田さんがネットヒーローズに来る前の出張先で、と聞いてます。東山さんの第一印象を教えてください」
 その質問に晃太郎は答えません。「録音するの?」とAndroidを気にしています。
「はい、メモするのめんどいので」
「それ誰が聴くの?」