「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作 上村裕香「救われてんじゃねえよ」

圧倒的評価で「女による女のためのR-18文学賞」受賞! 上村裕香 特集

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選考委員の窪美澄くぼみすみさん、東村ひがしむらアキコさん、柚木麻子ゆずきあさこさん、友近ともちかさんから「衝撃作」と称された第21回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作「救われてんじゃねえよ」を期間限定で特別掲載。築50年、8畳1間のアパートで難病の母を一人で介護しながら高校に通う主人公・沙智。散在癖のある父、頼りにならない担任教師、恵まれた生活を送るクラスメイトに囲まれて生き抜くヤングケアラーの真実。

 膝を立てて布団に座ったお母さんの背中に、正面から抱きつくようにして脇の下から手を回す。背中の後ろで両手を組む。
 顔と顔の距離が近い。お母さんはしきりに文句を言っている。最近一段と滑舌が悪くなってきている。口臭がひどい。足元の布団は冷たく湿っている。お母さんがまた漏らしたんだろう。いち、にの、さん。声をかけながら後方に体重をかける。お母さんの両腕がわたしの首に回っていて、負荷がかかる。上に持ち上げようとするのではなく、患者を引き寄せるように。ネットで見た立ち上がり介護の注意書きを思い出しながら、ゆっくりと二人立ち上がる。お母さんの両足が床につく。二人向かい合って立つ。二十センチの低反発マットレスは寝ていることの多いお母さんのために買った。立つ場所としては心許ない。お母さんの足が震えている。「もういいね、いいよね、行くよ」と強引に脇の下に腕を回す。
 お母さんとわたしはほとんど背丈も体格も変わらない。百五十センチくらい。お母さんが足を引きずるようにして壁とわたしにすがりついて歩き出す。壁にかけていた時計に頭が触れそうになる。とっさにガードしたらお母さんのほうがバランスを崩してしまったらしく、壁に思いっきり頭を打ち付けている。音は鈍かったけれど、大げさに痛がっている。「ごめんごめん」と謝る。
 はじめに起き上がらせようとしたときは腕を無闇に引っ張って散々文句を言われた。深夜三時のテンションも相まっておんぶしようとしたこともある。そしたら二人して派手にひっ転んで、音を聞きつけたお父さんがやってきて颯爽とお母さんをトイレまで連れていってくれた。わたしは安心して布団に戻り、それならはじめからお父さんがやってくれればいいじゃんと愚痴を言いながら寝た。でもその一回以来、お父さんがお母さんのトイレに付き添ってくれたことはない。
 やっとのことでトイレまでたどり着き、お母さんを便器に座らせて、ドアを閉める。時計を見ると明け方の四時だった。窓の外では雨が降り続いていた。朝になれば霜が降りるだろう。築五十年のアパートは八畳一間でユニットバス以外に個室がない。背後からお父さんの大きないびきが聞こえている。ユニットバスの中から「さっちゃーん」とわたしを呼ぶ声がする。うんざりしながらドアを開ける。膝までズボンを下げたお母さんがいた。
「パンツ下がらんのよお」と助けを求めた上目遣い。目やにがびっしりとついていて、拭ってやりたいようなもう視界に入れることすらしたくないような気持ちになる。手が震えるのも症状の一つ。お母さんのパンツに手をかける。腰を浮かせるタイミングを見計らってパンツを少しずつおろしていく。おむつの代わりに使っている生理用品型の吸水パッドは汗とおしっこを含んで重くなっている。ずりおろす瞬間のせーのという掛け声がばからしくて少し笑える。お母さんも「せーの」と一緒に口を開いて、舌が変な色をしていたのが目に入った。手が止まる。お母さんの太ももに吸水パッドがべちゃりとつく。お母さんが不快そうに眉をしかめる。なんしよん、と呂律の回らない口で不満を言う。口をもごもごと動かす。その口端から青色のよだれが一筋垂れる。
「ブルーレットの詰め替え用飲んだ?」
「飲むわけないやん」
「でもすごいどぎつくてちょっと澄んだ感じの青色してるよ。ちょっと泡立ってる感じとか、ところどころ濃くなってるところとかめちゃくちゃブルーレットだよ」
「飲んでないってえ」
 お母さんが話すたびに口から青色がのぞく。わたしはそれをしげしげと観察した。やはり着色料の入ったタイプの青色だった。トイレの芳香剤がどのくらい減っているか確認する。うちはそもそもマジックリンだった。
 お母さんのパンツを膝下までおろす。恥ずかしそうにおしっこしている。パンツを下ろされたのならおしっこしてるのを見られるのももはや同じだろうと思うのだが、お母さんは変なところで恥じらう。わたしはお母さんの口を無理やりあけてスマホで口内を撮影した。フラッシュに文句を言われる。おざなりに謝る。トイレットペーパーを差しだす。「拭けん、さっちゃん拭いてぇ」と甘える母の声を聞きながら、口の中の青色に笑いがこみあげてきた。自然界に存在しない色だもの。
「お母さん、これ、人間の体からでてきたらあかん色よ。鮮やかすぎる」と写真を見せる。
「ブルーレット飲んでないもん」
「わかっとるわ」
「だってうち、マジックリンやん」
「そういうことやなくて」
「だって、だって」
「だってって子どもんごと言うな」
「子どもはさっちゃんのほうじゃん」
「わかっとるわ」
 わたしはおかしくなって、げらげらと声を出して笑った。トイレットペーパーを二重三重に手に巻いてから、股座に手を差しこむ。拭いてやりながら、ふふ、ふふ、と笑ってしまう。お母さんはされるがまま、泣き笑いのような顔で「ほんとにブルーレット飲んでないから」と言い続けていた。