第二回 ①

ムーンリバー

更新

前回のあらすじ

真下蘭、27歳。主婦で、嫁ぎ先が営む〈デリカテッセンMASHITA〉の手伝いをしている。昨年夫の晶くんが事故死した後も、真下家で、義理の両親、義兄弟、息子の優と暮らしている。来月の晶くんの一周忌を前に、義父から幸せだと思う道を選んで欲しい、私たちもそれを望んでいると言ってもらった。私もようやく後ろめたさを感じずに、自分の将来を考えることができる。

イラスト 寺田マユミ
イラスト 寺田マユミ

越場勝士こしばかつし 五十二歳 文芸編集部 編集長

 義弟の一周忌なんですよ、と、阿賀野あがのさんに言われて、あぁそうか、と。
 そうだったな。人呼んで鈴蘭すずらん姉妹の妹さん。蘭さんの旦那さんは、二十五歳という若さで亡くなってしまったんだった、と。もう一年経ったのか、と。
 関係はほとんどなかった。
 部下の妹の夫になったというだけの人だ。
 ただ、阿賀野さんの妹である蘭さんには彼女が学生の頃に数度会い、たまたま蘭さんの嫁ぎ先がある商店街の近くに行ったので、お店で総菜を買いつつ挨拶したこともあった。それだけの関係だったが、葬儀には香典を出した。
 爽やかな笑顔の青年だった。少し線が細く感じたが、まさに好青年という印象。可愛らしい笑顔の蘭さんとは本当に似合いの夫婦に見えた。
 関係がなかろうとあろうと、自分より若い人間が先に死んでしまうのは、辛い。本当に、まだまだこれからだったというのに。
 関係がない、と言い切るのもあれだったか。
 そもそも阿賀野さんのお父さん、阿賀野達郎たつろうさんは装幀の業界では第一人者と言ってもいい人だ。装幀デザイナーの名を挙げれば、必ず五本の指に入ってくる。我が社から出す文芸書の装幀もたくさんお願いしてきた。もう何十冊になっているのかなんて、数えるのもおこがましいぐらい。
 俺が編集者になった二十代の頃、達郎さんはもうグラフィックデザインや装幀で有名になっていた。達郎さんは自分のデザイン性を前面に出しながらも、その小説のイメージを数段上げるような装幀に仕上げるんだ。その飛び抜けたセンスに感動して、何度も仕事を依頼して、あのカッコいいお宅にお邪魔して打ち合わせをさせてもらった。
 そこには、まだ可愛らしい小学生ぐらいだった阿賀野さん、鈴ちゃんもいたんだ。蘭さんはまだ影も形もなかったが。まさかその阿賀野さんが、鈴ちゃんと呼んでいたあの子が長じて我が社に入ってくるとは。しかも編集者として部下になるなんて思いもしなかったが。
 奥さんの妙子たえこさんはフォトグラファーで、彼女の撮った写真を表紙に採用して、達郎さんが装幀をして一冊の本を作り上げることもあった。
 ただの打ち合わせなのに、そのままお宅で晩ご飯をご馳走になることもあった。
 そういうことが、大好きなご夫婦なんだ。たくさんの編集者が達郎さんの家にお邪魔してご飯を食べて、泊まりこんで徹夜でゲームをしたり、話に花を咲かせたりしている。してきた。
 そういう意味では、亡くなった蘭さんの旦那さん、あきらくん、だったか、彼との縁も浅いものだけどあったんだろう。
 その阿賀野家の蘭さんが、寡婦になってしまっている。
 まぁ寡婦という言葉の意味を考えるのなら阿賀野さんも、鈴ちゃんもそうなのだが。
(姉妹揃って男運が悪いのか?)
 決して口にはしないが、ふとそんなふうに考えたこともあったな。
 長い間、鈴ちゃんと呼んでいた。彼女が高校を卒業するぐらいまでは、あの家で会ってそう呼んでいた。
 入社してからは阿賀野さん、と呼び、結婚してからは戸上とがみさんと呼び。
 そして、阿賀野さんに戻った。
 心の中ではいつも鈴ちゃんと呼んでいたので、飲み会などのときにはつい鈴ちゃんと呼びかけそうになっていかん、と呼び直したことも何度もあった。
 伊達に役職だけ付いてしまって担当する作家さんが減って、達郎さんと打ち合わせすることもほとんどなくなってしばらく経つ。随分長い間会っていないし、阿賀野家にお邪魔もしていない。
 達郎さんも七十代にそろそろ手が届くような年になっているはずだ。
 引退する前に、定年になる前に、いやその後でもいいんだが、もう一度一緒に本を作りたいと思っている。
 素晴らしい小説に、達郎さんに装幀をしてもらって。

(つづく)
※次回の更新は、4月4日(木)の予定です。