第三回 ④

ムーンリバー

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前回のあらすじ

阿賀野鈴、40歳、出版社文芸編集部勤務の編集者。編集長であり直属の上司に当たる越場さんにランチに誘われた。私の妹で、夫を亡くしてからも婚家で義兄弟と生活する蘭が気になるみたいだけど、私は蘭が真下家の嫁として一生過ごしてゆくと決めるかもしれないって、思ってる。その話がひと段落すると越場さんは、妙ににやにやし出して…。

「俺の息子に会ったことは、なかったよな」
「息子さんですか?」
 名前、なんだっけ。
 確か。
士郎しろうくん、でしたよね」
「そう、新川しんかわ士郎だな」
 別れた奥さんが親権を持っているので、奥さんの姓になっている。奥さんはその後再婚されて、つまり新川は今の旦那さんの姓でしょうけど。
 そう、この近くの大学に通っていて越場さんの家が近いからって転がり込んできたって。今は一緒に住んでいるんだって、嬉しそうに言っていましたよね。
「まだ小さい頃の写真を見せてもらっただけですね。大分前ですけど、越場さんによく似ていました」
「この間、会ったそうだぞ」
「え?」
「〈二階堂書店〉で、君が紙袋の荷物をぶちまけたときにいた男の子だ」
 あの子!
 思わず両手を広げてしまった。
「大学生って言ってました!」
 全然気づかなかった。いやそんなの当たり前だけど。
 覚えてる。すぐに浮かんできた横顔。鼻筋が通っていて、少し骨張った顎のライン。
「うわ、そうですね! 似てます! 似てました!」
 びっくりだ。そんな偶然。
「楽しそうなおばさんだったって言ってた」
 おばさん。失礼な。
 でもそうだよね。確か、大学三年生。二十一歳。四十歳の私は、年齢的にはギリギリ息子でもおかしくないんだから。
「そんな形で会うなんて」
 そうだ、すぐ近くに住んでいる越場さんと一緒に暮らしているのなら、いつかこの辺で会うこともあるかな、なんて思っていたんだ。
「すごく、真面目そうな男の子でした」
「それが真面目なんだよ。俺とは違ってさ」
 嬉しそうな、笑顔。息子のことを思うときの、父親の顔。仕事だけしていたら、絶対に見られないであろう顔。
 私は、この人の顔を子供のときから知っているんだ。その顔を見ているんだ。たぶんもう三十年ぐらい経っている。
 そういうことを、この人のことを、越場さんのことを時々考えてしまうようになったのはどうしてなんだろう、ってその度に思う。
 離婚した後からであるのは間違いないとは思うのだけれど、でも、離婚のことでいろいろ相談した他人というのは越場さんだけで。それも、昔から知り合いで上司で離婚経験者でっていう理由があるにはあるんだけど。
 わからない。
 私の中に生まれているこの感情に、名前はあるのかって。