第三話 明智小五郎【1】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

更新

前回のあらすじ

太郎は妻の隆子と千畝を連れて浅草の夜を行く。まだ何者でもない新婚夫婦と外交官志望の青年は、このあと運命の道へ歩み出す。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     一、

 二つ左隣の席は、関取のような巨漢だった。あががああー、んん、があ、んん。三十秒おきに聞いたこともない咳払いを繰り返している。そのたび、太郎たろうのすぐ左隣の男性が迷惑そうに眉根を寄せる。
 図書館に併設された公会堂である。百二十ほどの客席があるが、空きは見えない。待ち望んだ講演会だというのに、こんな男のそばでは集中できそうにない。そう思っていたら、ついに太郎と巨漢に挟まれていた男が立ち上がり、太郎の膝を越えていった。立ち見に切り替えるつもりだろうか。
「お、そこ、空きましたか?」
 若い男が太郎に訊いてくる。長い髪をいっちょ前にポマードで固めた、とがった鼻が大きい学生風の男だった。
「ああ…」
 まさか詰めろとでも言うんじゃないだろうなと口を濁すと、
「失礼しますぅ」
 商人のような柔らかな関西弁を発し、彼は太郎の膝をひょいと乗り越えて巨漢の隣に収まった。
「ああ、座れてよかった。僕は立ってると落ち着けへんのですわ。兄さんもやっぱり、探偵小説がお好きで?」
 太郎に話しかけてくる。大阪に住んで二か月になるが、知り合いでもないのになれなれしくしたがる関西人のさがが、太郎は苦手だ。よくまあ、名前も知らない他人にずけずけと質問ができるものだ。
「ああ、まあ」
 答えながら、どこかで似たような状況があった気がした。―早稲田の三朝庵さんちょうあんだ。
「『新青年』、知ったはります?」
 もちろん知っている。二年前に博文館が創刊した、海外の小説を中心とする雑誌だ。探偵小説も多く公募の懸賞小説の企画も魅力的で、最近では毎号買っている。―が、この学生と似たように自分も初対面の杉原すぎはら千畝ちうねに話しかけていた過去があることに気づいた太郎は、恥ずかしさもあって何も答えなかった。
「懸賞小説ありますやろ」
 学生のおしゃべりは止まらない。
「去年、あれで一等を取った『恐ろしき四月馬鹿』ゆう短編があるんやけど…」
 という彼の言葉は、客席のざわめきで遮られた。
 舞台上に今回の講演者が現れたからである。たちまち拍手が沸き上がる。太郎も、関西弁の青年も、関取男もそろって手をたたいた。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。馬場ばば孤蝶こちょうであります。本日の演題は『当世西欧探偵小説について』ということで、探偵小説に興味のある方々がお揃いのことと思います」
 太郎は、期待に胸を膨らませ、耳を傾ける―。

 隆子りゅうこと結婚した直後、さすがにいつまでも売れない古本屋ばかりやっていられないと、太郎は知人の伝手つてで東京市の社会局の職を斡旋してもらった。要領はいいので仕事はすぐに覚えたが、やっぱり毎日同じことの繰り返しがつまらなく、欠勤が多くなってくびになり、また別の職に変えた。
 隆子はあきれ果てたものの、慣れたものと見えて苦笑い。その後、大阪で新聞社に勤務しているうちに子どもが生まれ、また東京に出てとある団体の機関誌編集、傍らポマード会社で働いたが、両方とも給料がもらえなくなり、いつのまにやら、大阪の父親のもとに家族三人で転がり込んだのが今年の七月のことである。
 とにかく仕事がなければどうしようもない太郎だったが、職探しへの集中力を削ぐことに気が向いてしまうのだった。
 博文館から発売された文芸誌「新青年」である。海外の翻訳小説を中心に掲載しており、探偵小説が多い。また、隔月で懸賞小説の公募があるのも魅力であった。いつか自分もこれに応募し、燦然と作家デビューするのだ! そういう野望を胸に抱くも、すぐにそんなことができるわけないと自信を無くし、気づけば三十歳が目前に迫っていた。
「いつまでうちでごろごろしているつもりだ!」
「早く仕事を探してください」
 父と妻にせかされ、一歳の長男の、だあ、だあという可愛らしい声さえも「このごく潰し」と聞こえる始末。うしろめたさを引きずりながらも探偵小説の魅力には打ち克てず、こっそり「新青年」をむさぼり読むのだった。
 新聞に、その広告を見つけたのは、そんな折であった。
 ―馬場孤蝶氏、特別講演 演題「当世西欧探偵小説について」
 ばちん、と雷に打たれたように太郎は飛び上がった。今まさに、探偵小説を書かんとしている者にとって、その道に明るい識者の話を聞けるとは、なんたる機会か。これを逃す手はない!
 神戸にいる中学時代の友人が職を斡旋してくれるかもしれぬのです―父親にそう頭を下げて旅費をせしめ、こうして今日九月十七日、会場となる神戸の図書館までやってきたわけである。