第五話 満州国と二十面相【6】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

ハルビンの自宅に戻った千畝は、久々に妻クラウディアや義母と食事をした。幸せなひとときだったが千畝の心はうつろだった。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     六、

 平井ひらい太郎たろうは赤い光の中にいる。
 ただただ赤い。赤い、赤い、赤い世界。
 もうどれくらいこの世界にいるのだろう。時間などどうでもいいと太郎は思った。
 外は真夏の盛り。汗がとめどなく噴き出しては流れていく。いっそこのまま蒸し焼きのようになって死んでしまえたら…そんなことを考えている。
 太郎は、何をしているのか。
 ウジウジしているのである。
 あれはもう二年前、一九三三年の終わりのことだっただろう。およそ二年の休筆を経て、あるとき突然、やる気になった。
 復活だ! いっそのこと、待たせ続けた読者へのサービスとして、本来の探偵小説らしい、緻密なトリックとアッと驚くツイストを詰め込んだ長編をものしてやろう!
 それで「新青年」に連載を開始したのが『悪霊』である。胡乱な男から購入した犯罪記録、密室の土蔵で発見される裸の女性の死体、謎の記号の記された紙片、面妖な心霊学会の集まり…出だしこそ好調で、読者の反応もよかった。
 だが、三回で頓挫した。
 書いているうちに矛盾が生じてきたのだ。明智あけち小五郎こごろうが面白おかしく怪人と対決するだけの話なら気にせずぐいぐい書けるのだが、連載の初めのほうから伏線やヒントを入れ子細工のように組み込んでいかなければならない本格的な謎解き小説ではそうはいかない。先に発表してしまった部分を直せないからだ。筋も書かず、行き当たりばったりで通俗的な小説を量産する悪癖に、足をすくわれた。
 太郎はその小説をあきらめ、正直に「もう書けない」と謝罪文を載せた。読者から同業者から抗議の嵐が巻き起こった。その急先鋒が横溝よこみぞ正史せいしで、公然の出版物で乱歩のことを強く非難した。相変わらずの結核でうまく仕事ができない苛立ちも手伝っているのだろうと理解できたが、この酷い言いようには太郎も我慢できなかった。
「あんなに非難がましいことを書かなくてもいいだろう?」
 吉祥寺の横溝宅に押しかけて文句を言ったが、横溝の怒りは収まらない様子だった。病人とは思えない剣幕で、相撲取りのように塩を撒いてきた。
「始めた連載を投げ出すなんて前代未聞や! 作家なんてやめてまえ!」
 以来、横溝とは連絡を取り合っていない。
 仕事がなくなったわけではなかった。むしろ、毎回筋をひねり出すスタイルの連載小説は三つも並行して執筆している。なんとか毎月の締め切りを乗り切り、なんとなく結末を迎える。原稿料も十分すぎるほどもらい、池袋に土蔵付きの立派な自宅を構えることができた。
 だがもちろん、頭がすっきりする日など一日もない。
 休筆前となんも変わらん。ただの原稿料取りやないか―頭の中で般若の形相の横溝正史が罵倒し、こうして息子の幻灯機を持ち出して押し入れに逃げ、赤や緑のフィルムをかざして過ごすことは、月に一度や二度ではないのだ。
 これからいったいどうなるのか。同じようなやり方を続ける気か。はぁ…とため息が出たそのとき、がらりと襖が開かれた。
「あ。母さーん、やっぱりここにいたよ!」 
 十四歳になる隆太郎りゅうたろうが立っていた。