第一回 僕が生まれて

母へ

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拝啓

母へ

 これから、あなたのことを書こうと思います。

 初めに書いておきますが、僕はあなたのことが好きです。

 六十八歳のあなたが、血液検査の結果、白血球の数値が高いと判明したのは去年の年末のことでした。
 翌日に検査入院し、後日あなたは白血病と診断されたと父から聞いています。
 それからあなたの抗がん剤治療が始まりました。
 僕はそれを電話で知らされたあと、東京湾のそばを呆然と歩き続けた覚えがあります。

 無邪気に小説を書いてるうちに気づけば僕も三十六歳です。
 相変わらず、やりたいことばかりやって生きています。

 僕は何度かあなたに私信を送ろうとしたのですが、うまく書くことが出来ませんでした。目の前の書き仕事に忙殺されているうちに、日々は過ぎていきます。

 この文章が公開される頃には、僕の新しい小説が発売されているはずです。
 そして、次に何を書こうかと考え、僕はあなたを書こうと思いました。
 あなたに手紙を書くことを仕事にしようと考えました。
 僕はいつの間にやら、あなたのおかげもあり、プロの作家になりました。
 私信を書くのは大変苦手な僕ですが、仕事として文章を書くことについては、一定の能力を有しているはずです。
 だからきっと、この方が色んなことがうまくいくはずだと信じています。
 でも、もしかしたら僕は間違っているのかもしれません。
 もしそうだったとしたら、ごめんなさい。

  *

 先日、あなたに電話をして、赤ん坊の僕を抱いている写真が欲しいと頼みました。
 あなたは「私はかわいいので、人気が出てしまったらどうしよう」と言っていましたね。どうでしょうか。その自己肯定感の高さは、息子に受け継がれています。おかげで僕は、他人にどう言われても、自分の容姿にそれほどコンプレックスを抱くことなく育ちました。

 さて、あなたが僕を産んだのは一九八七年、つまり昭和六十二年一月二十三日のことでした。先日パスポート取得の際に、戸籍謄本を取得し自分の正確な出生地を知りました。自分の祖父母の名前が、あり得ないほど古風かつ今の感覚では少し風変わりなことも。
 あなたは僕を帝王切開で産みましたね。僕は逆子で、臍の緒が首に絡んで死にかけていた。大変だったというエピソードを幾度となく聞いてきました。並大抵の苦労ではなかったろうなと思います。
 今、僕はちょうど、僕が生まれたときの父の年齢に追いつきました。
 当時の写真を見ても、同い年なのに父の方が随分大人びた顔つきをしています。それも当然かもしれません。僕はいつまでも子供じみた生き方と考え方を続けているから。
 僕を抱くあなたの写真がたまに居間に飾られていて僕はそれを見て成長しました。
 あなたは幸せそうに微笑んでいますね。
 今回、昔の写真をたくさん送ってもらいました。
 理系の技術職で偏屈で太めの女性が好きな父と、太めの女性、という取り合わせです。
 昔の写真を見ると、二人は幸せそうです。
 そして僕も子供時代は幸せだったような気がします。
 もうおぼろげな記憶しかないけれど、それでもなんとなく覚えています。まだ言葉を覚える前の映像、なんとなく光に包まれていたような記憶を。
 僕が一歳の頃に父の転勤で我々家族は一時期京都から湘南に引っ越しました。物心つく前のことですが、湘南の景色やマンションのことをほんの少しは覚えています。その頃から自分の人生の記憶が始まっている気がします。湘南以前のことは記憶にありません。
 人生の最も初めの方の記憶に、あなたと手を繋いで湘南のマンションに帰る記憶があります。
 幸せな安心感に包まれていたような記憶です。

 その頃同じマンションにあなたの友達が住んでいて、僕とその人の息子は大体同い年くらいで、彼が僕に初めて出来た友達、幼馴染ということになりますね。ご存知の通り、その後彼と大人になってから再会し部屋に泊めてもらったこともあります。彼も結婚して今では家庭を築きましたね。僕はまだ独身のままですが。

 あの頃、幸せだったね。
 生きていて、楽しかったね。
 湘南時代が僕は人生で一番幸せだった感覚があります。その頃の僕には言葉はなく、ただ溢れる光の感じとあなたから注がれる無償の愛がありました。

さよなら世界の終わり

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  *

 父の転勤が終わり我々家族は京都に戻ることになりました。その頃には、京都の某観光地の駅のすぐ前に我々の家が完成していました。
 その頃はまだうちの前には雑草生い茂る昭和的な空き地が存在し、その奥に駅があるという位置関係でしたね。今ではそこに二軒の建売住宅が建ち、人が住んでいます。

 やがて三歳になった僕は地元の幼稚園に通うことになりました。
 その頃から僕の人生は徐々に暗いものになっていきます。
 集団生活が苦手だったからです。
 学校にも馴染めず、僕はそうした中にいると自然と不幸を獲得してしまう体質なのかもしれません。僕は一月生まれで体も小さく、当時は背もクラスで一番低くて喧嘩も弱かった。ところが僕には身の程を知らないところがあり、言葉よりも先に手が出てしまう気質で、何か気に入らないことがあるとすぐに誰彼構わず殴りかかりボコボコにされて泣いてばかりいました。僕はこれまでの人生であり得ないくらいたくさん喧嘩をしましたが、勝った記憶が本当に一度もありません。僕はあり得ないくらい喧嘩が弱かったのです。
 それでも僕は誰彼構わず殴りかかる、大変迷惑な子供でした。僕は言葉を覚えるのも遅く、言葉を使って人とわかりあうのがとても苦手な人間なのかもしれません。
 実は三十六歳になった今でも、すごく苦手に感じます。あるいは、そうした強烈なコンプレックスが根底にあるからこそ、小説なんて面倒くさいものを、わざわざ書こうなんて気になれるのかもしれないですね。

 そして、僕の不幸な日々の始まりは、同時にあなたの不幸の始まりでもありました。
 僕が学校で問題を起こすたびに、あなたは謝罪をする羽目になります。
 あなたは自分がやったことでもないのに、他人に謝り続ける日々が始まるのです。かわいそうですね。
 子供って大変ですね。
 今更何をと言われるかもしれませんが、僕は大変な問題児で、手のかかる子供でした。
 そのせいで、母親としてのあなたの育児は大変困難なものになったと思います。
 子育てお疲れ様でした。
 あなたは自分の後半生を、僕を育てることに費やし、その結果、僕という風変わりな人間が生まれ育ちました。
 幼い頃からの受験勉強や習い事、学校に行かなかった時期、行く先々で起こす揉め事、二十代後半の僕が無職だった頃、あなたの気苦労は絶えなかっただろうなと思います。
いつも感謝しています。

  *

 あなたは僕を育てるために、きっと、いろんなことを犠牲にしたと思います。
 もし僕が生まれなければ、産もうとしなければ、あなたは、生きがいだった仕事を続けられたかもしれないですね。
 あなたはもっと健やかに幸せに生きられたかもしれない、と、ときどき思います。
 もしかしたら、子供は、生まれてくることで、何らかの形で母を傷つける存在なのかもしれません。
 子供が、生まれてくることで傷つく存在であるのとは、また別の形で。
 そう考えると、人生って難儀ですね。

  *

 僕には、ときどき、あなたの愛情が重いときがありました。
 それでも、僕はあなたが好きでした。

 また、この、手紙のようなものを書きます。
 それまでどうかお元気で。
 よく食べてよく寝て暮らしてください。
 そのうち実家に帰ります。

敬具

あなたの息子より

(つづく)
※本連載は不定期連載です。

透明になれなかった僕たちのために

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