第四回 勉強はできなくて

母へ

更新

前回のあらすじ

今、東京駅のカフェでこれを書いています。これから新幹線に乗って実家に帰ります。久しぶりにあなたに会えるのを楽しみにしています。美味しいものをたくさん一緒に食べましょうね。

拝啓

母へ

 お正月ですね。
 三が日はお節料理美味しゅうございました。餅も柿も…と、なんだか遺書みたいになってきたのでやめます。
 久しぶりの京都は、変わらないところも、すっかり変わったところもあり、感慨深いです。
 今の京都は、お琴のイージーリスニングがやけに街中に流れていたりして、世間で流通しているいかにも京都的なイメージを取り込みながら観光地化を加速させていこうとしているように見えます。僕の学生時代の牧歌的で少し野放図な京都は消えていきつつあるのかもしれないと感じます。
 あなたの息子は帰省中もぼちぼち何かしらの原稿を書いていました。
 京都の町をぶらぶらと歩いて、やる気が出てきたら書くという感じで過ごしています。
 あなたが、思っていたより随分元気そうで、肌つやもよくて安心しました。これまで定年後も嘱託で長年勤務していた父が定年退職し、きちんと家事をしてくれているからかもしれませんね。

  *

 さて、今回は小学校高学年の頃の話を書こうと思います。その頃から中学受験というものが我々の視野に入ってきました。
 僕は勉強が嫌いで、努力が出来ない、それは昔も今も変わりません。理由もなくとりあえずこつこつとやっておくか、みたいなことが大変苦手でした。意味を見い出せないことをやるのがしんどいのです。ところで人生というのもある見方ではあまり意味のない虚しいものなので、それが故に僕はそもそも生きるのが不得意なのかもしれません。
 僕はサボり癖が酷かったので、スパルタ塾に通わせたいというのがあなたの教育方針で、大手の塾とかも試しに行ってみたものの、最終的には地元の鬼教師の塾に通うことになりました。あの先生は大変厳しく、僕もあなたもよく怒られていました。僕が不真面目な生徒だったせいです。あなたは学校でも塾でも謝ってばかりでしたね。
 僕は全然勉強しなかったので、特に理科と社会の偏差値が最悪で、酷いときは30台という体たらく。実際テストではいつも何もわからなかったので、ただ適当に選択肢を選んで答案の空白を埋めていただけでした。
 とはいえ、僕は中学受験に失敗するわけにはいかなかったのです。父の希望はD中学に進学すること。物心ついた頃から父に連れられ、D大学の同窓会に出席し校歌を口ずさみ、創設者の墓参りにも行っていた僕にとっては、D中学合格は至上命題でした。僕は数国は得意だったので、暗記を頑張って理社の偏差値を上げればなんとかなるだろうという単純明快な状況でした。しかしやる気が出ない。公民とかは好きだったけど、地理には興味が持てなかった。スーファミばかりやっていました。
 僕の中には親の期待に応えたいという気持ちだけがありました。
 僕が期待されていたのは、エリートになることではありませんでした。
 僕は、D中学に進学し、コミュニケーション能力に長けた、友人の多い、魅力的な人間として健全に成長することを期待されていると感じていました。それに本当に向いていないということにまだそのときの僕は気づいていなかったのです。まだ自分がリア充になれると信じていた頃の話です。
 交通事故に遭ったのは六年生のとき。塾帰りに坂を駆け下りてバイクに激突、吹っ飛んで意識がホワイトアウト、救急車で病院へ。ただでさえ勉強量が不足しているのに、しばらく塾を休むことに。自宅で安静にしているときに、暇なので、漠然と受験当日までに必要な勉強量とスケジュールを軽く計算しました。いい加減、勉強しないと落ちるな、と思いました。気合いを入れるきっかけを欲していた僕にはそれも良い機会になったのかもしれません。それからの僕は酷かった。
 夏休みが追い込みということで僕は毎日塾に行き、これまでまともに勉強をして来なかった分、今までの遅れを取り戻すために日々ガリ勉をしていました。それでも帰宅すればゲームにのめり込む僕にキレた父はスーファミをベランダから投げました。宙を舞うゲーム機。その後自宅ではゲームが禁止に。僕は泣きながら勉強をしました。塾から帰宅後、深夜に復習するのは辛くて、僕は勉強なんかしたくない、と叫んでいました。